2013年12月25日水曜日

クリスマスの夜は・・・


ビング・クロスビーのジングルベルは、ぼくが最初に覚えた英語の歌だ。

新物好きの叔父は、60年代の初めにすでに大きなステレオプレーヤーを持っていた。ぼくが遊びに行くと、たまに少しだけレコードを聞かせてくれた。ジャズをたくさん持っていて、聴き古した数枚を僕にくれた。小学3、4年のころだ。

その中の一枚が、ビング・クロスビーのドーナツ版White Christmasで、B面が Jingle Bellsだった。

何回も聴いて歌ったから、今でも伴奏やコーラスも含めてそっくりに歌うことができる。

さっき何十年かぶりに引っ張り出してきて聴いた。盤面のカビや埃でシャカシャカいう音を伴っていたけれど、懐かしいサウンドはやはり心を慰めてくれた。

今は、大好きなオスカーピーターソントリオのWE GET REQUESTSを聴きながらこれを書いている。これは確か高校のころ初めて買ったジャズのレコードだ。中学のころかもしれない。特に"The Days of Wine and Roses"が気に入っている。


次はシナトラにしようかな。それともデイブ・ブルーベック・カルテットのTake 5かな・・・

「クリスマスの夜は、やっぱりジャズでしょ」

ろくにレコードやCDを持っていないぼくは、独りそんなことをつぶやく。

2013年9月30日月曜日

余が物欲に関する負け惜しみの説

常より物欲に恬淡なりと公言しておる。余の言動を知る人は概ね其れを信じておる。

然るに其れ真にあらず。真実は全く逆にして、余こそ物欲の権化なり。

余が物欲は過大にして決して満たされることなし。余が物欲を達せんとせば、莫大なる金銭を費やさざるを得可からず。かかる巨富を得んには、余の器量幸運いずれも全く足らざること自明なり。

而して余の手に入りうる富を以って僅かに余が欲の数千分の一を実現せんとせば、其は数千分の一の満足を余にもたらすに非ず。反って数千倍の不満足を返す可し。

余が真に欲するは、貴重なる無垢材を用い、稀有な名匠の手になる書院の館である。手入れの行き届いた庭園、それも、山里の自然を模しながら高い精神性を湛える夢窓疎石の庭である。手織りの着物を着て、骨董の調度品食器に囲まれ、旬の天然食材の料理のみを口にして暮らしたい。

この希望に少しでも妥協を持ち込めば、その優雅な生活は忽ちにして下品な成金趣味に堕すること言を待たず。

故に、ある時より我に物欲なしと偽り、棺おけに入るまでその振りを続けることを決めたり。

例えば、外食するに安い定食の利用を常とす。或は、イトーヨーカドーの衣料を普段着に纏う。妻は揶揄して、余をスーパーモデルならぬスーパーのモデルと呼ぶ。

まことに以って負け惜しみの所業に他ならず。

今ここに記して、せめて余が本懐を親類縁者の知る所となさん。

2013年6月16日日曜日

X夫人の午後

X夫人の午後
        碧海

炎天路を焼く
夫人乗りて冷風に吹かれ楼に赴く
至りて及ち跨り漕ぐこと万遍 
一ミリも進まず 是汗を強いるを専らとす
後 熱浴するは残汗を搾るに有り
渇けば則ち貪る 麦酒の酒に非ざるを
帰路再び乗る
路樹残炎に苦しむも 夫人終に汗無し
還りて厨に立つ 
忽ち洩るるは其れ嘆息かおくびか

2013年5月13日月曜日

黒澤+三船にゃ誰もかないっこねえ

一昨日テレビで森田芳光監督の「椿三十郎」を見た。二度目だ。言うまでもなく、50年前の黒沢作品のリメイクだ。

織田裕二が三船敏郎の向こうを張ろうってえのが所詮無茶な話だ。リメイク作品が発表された当時、よくも織田が引き受けたものだとあきれたが、もう一度見て改めてその勇気に感心した。

最後まで見るには見たが、見るほどにいよいよオリジナルが恋しくなって、直ぐにアマゾンでDVDを注文してしまった。

今晩帰宅するともう届いていて、明日の出張準備も済まないのに、待てずに見てしまった。改めてオリジナルを見ると、織田のみならず、森田の無謀こそ思わずにいられなかった。

同じ脚本を使っているので、当然台詞はほぼすべて同じだが、だからこそ、演出の差は歴然として現れる。

今どきの俳優たちの演技力と生活感の希薄さについては、この際言わないことにしよう。台詞回しの間といい、役者の表情、立ち居振る舞いといい、カメラアングルといい、黒澤のセンスはやはり秀逸だということが、こうやって比べてしまうといやおうなく見せ付けられる。カメラアングルなど、なるほどこう撮るかと、うならされる場面がいくつもあった。ともかくすごい。

森田もなかなか好きな監督だ。織田も好きだ。しかし・・・。

三船演ずる浪人の格好良さは、天下一品。ショーンコネリーのジェームスボンド以上だ。我輩には、ショーンコネリーの四十代以降の演技が、三船を意識していたようにしか見えない。

そう言えば、「風とライオン」でショーンコネリーが馬で逃げる敵に追い迫って、走る馬上から敵を一刀両断するシーンを見て鳥肌が立ったが、何年も後になって、それが「隠し砦の三悪人」で三船が見せるシーンの公然のパクリだということを知った。しかも、三船はそれを吹き替えなしで演じ切っていた。

まだまだ語りたいことがあふれ出してくるが、切りがないので、あと一つだけにしてやめておく。

オリジナル椿の最後の名物シーン。三船が仲代を一瞬の居合いで倒すが、何度リピートしてみても、三船がどうやって刀を抜いたのかわからない。おそらく鞘に仕掛けがあったのだろうと推理するが、それにしても三船のあの身のこなしを真似できる俳優は、後にも先にもいるはずがない。

黒澤と三船のコンビには、誰もかないっこない。ハリウッドの監督たちがあれほどまで黒澤に憬れたこと、うべなるかな。

2013年2月8日金曜日

収斂進化、人の家畜化、幼形成熟

先日図書館で借りた『犬のココロをよむ』が面白い。



犬のココロを読もうと借りたのだが、犬が人のココロを読めるらしいという話。「目は心の窓」と言うが、犬は人の視線の先を理解し、視線のやり取りで人とコミュニケーションしているということも科学的に証明されてきた。

それは、チンパンジーなど類人猿にも出来ない芸当だという事が最近の研究で分かっている。

何と、犬は、人からあくびがうつる唯一の動物なのだそうだ。すごい!

白目が見えるということがここで重要な役割を持つ。哺乳類で白目がはっきり見えるのは、人と犬のほか、そんなに居ないのだそうだ。

結局、人と犬は長年の共生の歴史を通して、同じ環境に、イッショに適応し、進化してきたという仮説さえ現れた。これを収斂進化と言う。

犬がオオカミから進化したことは遺伝子学的に証明済みなのだが、犬はオオカミとは決定的に違う特性をもつ。それがネオテニー、すなわち幼形成熟。

その結果、オオカミと違って、大人になってからもよく遊ぶ。大人のオオカミはボール遊びに夢中になったりしない。また、犬が知らないものや人に対して、いつまでも興味を持つのもこの幼形成熟の結果だと考えられる。

それは、もちろん人の特性でもある。我輩などは、その傾向が特に強そうだ。

人はネオテニーを強くもっているために、情動行動が穏やかになり、協調的な性質をつよめて、自ら家畜化した唯一の動物であるという考え方まで有るという。

さらには、ネアンデルタール人が滅んだ理由や、犬との共生で現代人が獲得した能力とか、笑の意味とか、いろいろ面白い話が続く。

是非ご一読を。

やっぱり、犬は特別な動物だったのだ。そうだと思ってたんだよね。