村上春樹は随分前に、今ではどれだか忘れてしまった一冊を、息子から借りて読もうとしたことがあったが、数ページでやめた。
その後、村上が文壇の主流から高い評価を得られないことを知った。当然だと思った。
近年、ノーベル賞の時期になると、必ず巷で村上が候補予想に挙げられるのをいぶかしく思う反面、それほどの才能をあるいは見逃していたのかも知れないという軽い悔恨を感じていた。
丁度そこに、最近相次いで複数の友人から熱心な勧めがあったので、あの長い小説全巻を中古で買い求めた。
数ページ読んでの感想は、以前のものと基本的に変わらなかった。大した文学賞に値するような小説では全然ない。
しかし、しばらく読み進むうちに、作家のある突出した技量に気付かされた。
今回ばかりは友人の忠告に従って最後まで読み切ろうと決めたこともあったが、それよりも作家のその手練に乗せられて、つい時間を忘れて読み続け、あの長編を短期間で読了した。
思わせぶりな筋立てと展開で読者の好奇心を激しく駆り立てるという点において、作家は名人、達人の域にあると言える。
しかし、それは、優れたテレビ作家の条件として決定的だとしても、優れた文学者であるための十分条件とはなり得ない。
もし十分条件であったなら、村上の前に、例えば英米作家のハードボイルド、サスペンス、ミステリー、SFなどの多くがノーベル文学賞の受賞候補、または受賞作となっていたはずだ。
一方、この小説には、いくつかの重大な瑕疵がある。
まず、第一に、全体のかなりの部分について文体が明らかに翻訳調である。
次に、無駄で奇をてらった比喩の多用がうるさい。
第三に、主要登場人物の全員に、作家固有の趣味があまりにあからさまに反映されている。
第四に、無駄な細部説明が多い。
そして最後に、主題、何を訴えたいのかが甚だ不明だ。いや、おそらく不在なのだ。
まず第一の点、文体の問題。
日本人が普段ほとんど使わない表現が頻出する。
それが作家の独創的な文体であるのなら、通常の日本語表現との相違がむしろ作品の芸術性を高める要素になる場合も有り得ようが、村上の場合、欧米の特に現代小説の邦訳によく見られる文体であって、彼の独創などではない。
しかし、日本文学の伝統に従わず、欧米文学の表現に擦り寄ることこそが、「村上文学」の「世界文学」たる証拠だ、との弁護も聞こえそうだ。
私は、「世界文学」の存在もその定義も知らないので、勿論その主張に与することは出来ないが、議論をすすめるためここは百歩譲って、仮にそのような弁護を認めたとしても、なお決定的な欠陥が弁明され得ずに残る。
それは、登場人物たちの発言の中に紛れ込む翻訳調文体だ。「紛れ込む」という表現がそぐわないほど頻繁に現れる。そしてこのことは、第二および第三の問題点とも重なる。
これは、人物描写の失敗という小説としては致命的な欠陥を意味する。
作家は、登場人物の現実的存在感とそれぞれの個性の構築とを犠牲にしてまで、自身の好む一つの語調を、彼らの口に語らせてしまっているのである。
もし、私たちが日常生活の中で、あのような翻訳調の言葉を話す日本人に出くわせば、何と気障で奇をてらったヤツだと思うに違いない。(「あいつは村上春樹の読みすぎだ。」)そんな人が、何人も自分の周りに現れれば、現実離れした、異様な空気を感じずにいられまい。
そして、登場人物の奇妙な言語は、多くの場合、さも得意げな比喩表現に現れる。
こんなにたくさんの比喩を日常会話の中で話す人が、実際の日本社会に存在しないことも不自然の一つだが、さらに、それら比喩表現の形態が、日本語の伝統によらず、英米娯楽小説に一般的な形態を採っていることも甚だ不自然だ。
凝った比喩表現が作家の作風だとしても、多くの異なる登場人物に、同じ特異な比喩趣味が共有されていることの醜さは、いくら譲っても看過し得ない。
しかも、その数の多さを見れば、それが決して「図らずも馬脚を現した」という体のものでないことが分かる。意識的に、あるいは開き直って、自分の趣味を登場人物たちに投影しているとしか考えられない。
そして、その比喩表現の多くが、物語の進行に、あるいは意味の正確な伝達にどうしても必要なものとは思われない。この作家は、ただ、変わった比喩表現の思い付きを一つ残らず見せびらかさずにいられないだけなのだろう。
しかし、主要人物全員への執拗な作家自身の趣味の流し込みは、比喩表現や翻訳口調に終わらない。
音楽や文学や料理や服飾などにも及ぶ。その具体的なブランド名の特定。
そしてこれもまた、欧米現代娯楽小説の陳腐な作法である。
その作法へのご執心が昂じて、第四の問題、即ち、行動や状況についての網羅的で細密な描写の連続にもつながると考えられる。
必要な細密描写は当然あっていい。不要なものが多すぎる。
その理由は明白である。不自然で非現実的な人物たちの現実感をどうにか補うための、そのためだけの対策なのだ。しかし、その努力は成功していない。
不自然で非現実的なのは、人物たちだけではない。物語全体を構成する主たる要素がことごとく不自然で非現実的だ。
その故に、読者は、その不自然さの謎解きを期待して、先へ先へと読み進ませられてしまうのだ。その謎たちが、そしてその解明が、きっと小説全体の主題に向かって収斂していくのだろうという当然の期待にワクワクしながら。
しかし、呆れたことに、結局、謎解きは一切無いままに終わる。リトルピープルの実体も、二つの月の意味も、愛人失踪の理由も、教祖の思想も、その娘の実体も。何もかも、ただ曖昧にはぐらかされて終わる。
これは、一種の詐欺と言ってもいい。
これらの奇妙な要素を散りばめて読者の好奇心を煽るだけ煽っておいて、そのからくりを一切提示、いや暗示すらすることなく、ただそれらはそのまんまあったこととして終わる。
読後の読者は、なんであんな詐欺に引っ掛かったのだろうと、自分の不明を恥じる被害者として取り残される。
あんなにも字数を費やして人物達の生い立ちを克明に綴っていながら、振り返ってみれば、なお誰一人として切れば血の出る生身の人間としての実感がない。
それは、その克明詳細な説明が、ただ、この小説が本当の世界と何のつながりも無いことを糊塗するためのアリバイ作りだからだ。詐欺師の巧妙な口車に過ぎないからだ。
小説の人物たちの人生と現実世界との間には、何の有機的な関連も存在しない。
私は、たまたま主人公天吾と一つ違いで、1984年の日本を彼と共に生きたはずだが、この小説ででっち上げられた世界に何の共感も、いや、何の実感すら感じることが出来なかった。
きっと、村上春樹という人物は、実際の世界を生きて来なかったのだろうと思う。彼の頭の中に無理やり作った彼の世界に生きていたし、今もそこに住んでいるのだろう。彼の大好きな、ジャズや、クラッシックや、料理や、アメリカの小説や、さまざまな道具たちだけで出来上がったバーチャルな世界に。
そういう意味で彼こそ現代的な作家であるとの主張が成り立ちそうだが、果たしてそうだろうか。
彼という存在、彼の書いた小説が、現代社会のある性格を象徴する題材、即ち客体として存在している、ということは言えるかもしれない。しかしそれは、彼の作家としての功績ではない。
例えば、スマートフォンを現代社会のある側面を象徴する題材として、優れた小説が書かれることは有り得るが、スマートフォン自体がそれを書くわけではない。
さて最後に、あの奇妙な謎たちに、1500ページ以上に渡って付き合わされた挙句、私たちが得たメッセージは何だったのか。
新興宗教の本質?いや、そんな厄介な分析は見当たらない。
現代人の孤独? 現代社会の非日常性? 生活感の希薄さ?家族の崩壊? はたまた、現代社会の不可解性?
だとしたら、実際の日本社会を描写するか、せめてその実相を連想させてくれなければ、意味を成さないだろう。
有り得ない世界を作り上げておいて、その不可解を見せられたところで、それは作ったお前のせいだろうと答えるしかない。実際の世界と何のかかわりもない。
結局残るのは、二人の男女の恋愛の持つ強さとその成就の美しさということらしい。確かにそれなら酷く解り易く表現されている。あまりに解り易く。
こんな平凡なメッセージのために、あんなにも長々と、意味もない奇形のエピソードと人物達をでっち上げたのか。
いや、実は、この小説の仕組みは、村上が小説の中で、ごく直截的に白状してしまっている。
面白い小説であればそれは良い小説だ、ほかに何も必要ない、面白いことが良い小説の十分条件である、という趣旨のことを主人公に語らせている。
これこそが村上の本音であり、文壇主流派への挑戦のつもりなのだろう。
しかし、面白いにもいろいろある。
思わせぶりを巧みに仕組んで、ただ読者の好奇心を引っ張り回すことが出来れば、それだけで面白い小説だと言えるのか。面白いとしても実に軽薄な面白さだ。
何と浅はかで幼稚な文学観だろう。
文学が、現実世界の人やモノゴトを生々しく描写しながら、その本質のある一面を感動的に表現しなおすものだとの定義に従うとすれば、「1Q84」は、本物の文学ではない。
どんなに非現実的なエピソードを編んだとしても、登場する人や人の集まりである社会の本質的な性格は、現実世界のそれらを反映していなければならない。さもなければ、単なる絵空事となるばかりだ。
「1Q84」で村上が紡いだ物語の材料となったのは、現実に生きている本物の日本人ではない。アメリカ現代娯楽小説の中に作り出された架空の人物達である。だからしばしば登場人物は、彼らのような話し方をしたり、彼らのように拳銃を扱ったりする。
自然でも人間でも本物を写し取って、その本質を抉り出すのが本物の文学である。たとえ、物語が非現実的なものである場合でも。
既に他人の手で写し取られた影たちを、さらに写し取って作り上げた物語は、ニセモノと呼ぶほかない。
ディズニーランドに似ている。ディズニーランドは、現実社会を再表現したものではない。それは、ディズニーの描いた漫画の世界を再表現した構築物である。
それがどんなに楽しい経験を提供してくれても、それは芸術ではない。娯楽施設だ。そのことは、ディズニーの漫画、ないし動画作品が、一種の芸術作品たり得るいうことと両立する。ディズニーの描いたネズミの主人公は、ディズニーが現実のアメリカ人をモデルに再表現したものである。
「1Q84」は、村上春樹の個人的な趣味と奇妙な妄想の塊である。ただそれを物語らしく仕立てるために、詳細な描写が塗り重ねられているだけの作品だ。
何よりも、「1Q84」は読者の世界観に何らかの変化を残しただろうか。影響を及ぼしただろうか。変化を起こさないまでも、気付きを与えただろうか。あるいは、深い感動や強い共感を呼び起こしただろうか。心に残る喜びや、悲しみや、怒りを与えてくれただろうか。
では、人生の深遠なる神秘を見せてくれたか。
私の答えは、ことごとく「否」である。
冒頭から始まる思わせぶりは、その後どんどん水かさを増して、やがて奔流となって読者を押し流していくものの、どこまでも思わせぶりのままで、最後には水が引くように消えてなくなる。
こんな安易な小説が在っていいものか。
娯楽小説としてもひど過ぎやしないか。推理小説やサスペンスだったら、ただでは済まされない。まず出版の可能性がない。
つまり、読者の人生にとって毒にも薬にもならない。
もし万一、村上春樹がノーベル文学賞を取るようなことがあったら、私は選考委員の不明を嘲笑するだけだ。
村上食品製造の合成食品を今後二度と口にすることは無いだろう。
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