2012年2月12日日曜日

犬とでも暮らそう(2)

そう言えば、大昔、まだ私が東京銀行に勤めていたころ、同じ部の同僚(先輩)にサイードというイラン人がいた。流暢な日本語を話したので、電話の相手は彼の名前を聞いて「斉藤さんですか」などと間違えたものだ。

彼は、パーレビ時代のイランの中央銀行の副総裁の息子で、一家は、1979年のイラン革命で出国を余儀なくされた。彼には5人だかの兄弟がいて、それぞれ、アメリカ、イギリス、フランス、日本など世界の異なる地域の主要国に留学し、それぞれの国に就職もしていた。つまり、計画的に兄弟を各国に送り込んで政治的、人的ネットワークを作らせ、一家存続のために一族ポートフォーリオの分散戦略を進めていたのだ。

それを聞いて私は彼の置かれた過酷な境遇に驚き、その用意に感心もした。

今になってみると、日本もそんな時代に踏み込んで行くのかもしれないと、恐ろしい気がする。

しかし、そのようなアプローチは日本人の気質に合わないだろう。

日本人は、長期的戦略の策定能力に欠けるのではなく、長期的戦略の有効性を心から信じることが出来ないのだ。

われわれにとって、世は無常が当たり前で、その変化の仕方は偶然によって、または、因縁によって、決められるもので、究極、人智の作用の及ぶところではない。運命をコントロールすることは出来ないのだ。

西洋人、特にアングロサクソンが長期的戦略に掛ける情熱にはいつも圧倒される。彼らは、自分の立てた将来予測に相当なリアリティーを感じることが出来るらしい。その予測にしたがって今の現実の生活を惜しげなく変更できる。日本人にはとてもまねが出来ない。

私は、いくつかの外資系企業で働き、何度かコンティンジェンシープランの作成作業を見たことがあるが、その細かいことといったら驚くばかりだ。そんなこと決めたってそのとおりになるわけ無いだろうと思うことまで決める。

この彼我の違いの理由が、今度の大震災で初めて分かったように思う。

日本を取り巻く自然は、普段は実に多くの恵みを人に与えてくれる。海や山の恩に寄り添うことで日本人は豊かな生活を送ることが出来る。しかし、その母なる自然は、ある日、何十年か何百年のときを隔てて、何の前触れも無く、突如圧倒的な力と規模で人の生活を根こそぎ奪い去る。それが日本の大地震と大津波だ。

その周期の長さと規模の大きさがどんな対策も無効にする。

あらゆる場面での日本人の「しょうがない主義」はきっとここから来ていたのだと私は思った。

だとすると、これからも日本人の無計画症候群、後手後手症候群、先送り症候群は治らないのかもしれない。

しかし、だとしても、今、私たちは区別すべきものを区別しなければいけない。愚かな混同はよせ。地震と津波の国の国民性を無分別に敷衍するな。

すなわち、原発は人工物で、自然物ではない。地震や津波とは違う。人の意思で計画され建設され運営されているものだ。止めようと思えばいつでも止められる。

せめて止められるものは止めようではないか。

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