日経がFTを買収する。
面白いニュースだ。
親となった日経が経営上よくFTを御することが出来るかどうかも見ものだが、その話ではない。
日経の発行部数は280万、デジタル有料読者が43万だそうだ。かたやFTの合計読者数は70万、うち50万がデジタル版の有料読者。
しかも日経の読者はほとんど日本人に限られるが、FTの読者は世界中に広がる。それでも、この圧倒的な差は一体何を意味するのか。
FTの記者がこの買収について意見を求められて、「日経のことを何も知らないのでこれから調べる」と答えていたのが印象的だ。
FTは世界のメディア中最も信頼されるメディアだ。世界のリーダーでFTの記事を読まない者はいないと言っていいだろう。
日本に関する記事、とくに近現代史がらみで、違和感があるものはあるが、全般的に国際的な取材力、分析力はいわゆるクオリティーペーパーの中でも抜きん出ていると思う。
ニューヨークタイムズ、ワシントンポストより優れていると思う。
例えば、ソ連の崩壊をいち早く予測した特集記事を読んだときのことは忘れられない。素晴らしい分析だった。
さて、つまり、発行部数と記事のクオリティーの間に、正の相関はないということだ。それどころか、ある意味、負の相関が疑われる。
日経、FTなど、個別メディアの問題ではなく、一般論として重大なテーマがここに含まれている。
民主主義の本質にかかわる問題だ。
骨董、芸術に限らず、政治、経済の洞察においても、目利きは常に少数派だ。
率直に言えば、大多数は本質を掴めないのだ。これが民主主義のパラドックスであり、ジレンマでさえある。
民主主義において、大衆の意見がものをいうことは勿論だ。
しかし、世論が目利きによってリードされなくては良い民主主義が実践され得ないという認識が国民の間に厳格に共有されていなければ、衆愚政治の罠から逃れることが出来ない。
よしんば国民大多数によって共有されないまでも、少なくとも政治家やメディアによって信じられていなければ、国民は、縫いぐるみの民主主義に愚弄され続けるほかない。
民主主義のもっとも進んでいるとされる欧米先進国において、クオリティーペーパーの発行部数は、日本と比較すると驚くほど小さい。
前述のごとく、FTで言えばほんの70万。それも世界全体での話だ。日経は280万プラスデジタル43万。日本だけで。
ニューヨークタイムズでもタイムズでもルモンドでもフィガロでもFTと状況は同じだ。
アメリカでもイギリスでもフランスでも、大衆は大衆向けのメディアしか読まないのだ。しかし、世論をリードするのは、もしくは誘導するのは圧倒的少数のエリートたちの知見だ。
日本の世論形成は、いわゆる先進国の中では特殊なのだ。
日本での世論は、主婦の井戸端会議や、サラリーマンの居酒屋談義や、それらに限りなく似せたニュース番組によって作られる。
だから、政治家が国会の中で反対勢力の悪口を書いたプラカードなどをテレビカメラに見せびらかしてわめいたりするのだ。
大衆が政治家に向かって訴えているのではない。政治家が大衆に同意を求めているのだ。感情的な同意を。
今回の安保法制論議を見ても、野党は細かい専門概念や限定条件や留保条件を削って、「ほらやっぱり外国を攻撃できるようにする法案じゃないですか。」などと目をむいて見せ、答える与党も、複雑な国際法上の議論などはテレビの視聴者には理解されないと思うから、そこは敢えてはぐらかして、野党の誘導する悪い印象を払拭しようと「わかり易い」たとえ話などで四苦八苦したりするのだろう。
どこの国でも大衆が複雑な事象を理解できないという状況は変わらない。その点日本が特殊なのではない。
日本が特殊なのは、専門家、学者、見識あるジャーナリスト、政治家の意見を大衆が尊重するのではなく、大衆こそが正しく判断する目を持っているという幻想が、あるいはまやかしが、この国の「民主主義」の公式の前提として崇め奉られていることだ。
そこでは、「よくわかるように説明しろ」という台詞が「反対意見」として万能の切り札になる。
この間違った前提を正さない限り、日本の民主主義の進化はあり得ない。
日本の有力紙、有力メディアが、つねに大衆読者を対象としているとすれば、そこでの論調、解説の品質は限定されざるを得ない。
日経のFT買収は、おそらくFTの記事に何の変化ももたらさないだろう。FTの記者や編集者が日経の影響を受けるはずがないし、日経も記事、編集の独立性を保障すると言っている。
逆に、日経の記事の内容や性格が変わることもないだろう。読者が変わらないのだから。
今回の買収が、日本の民主主義の進化に何らかの貢献をするだろう理由は、残念だが見当たらない。