ラベル 社会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 社会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年2月28日火曜日

愛と成金とオードリー

オードリーヘップバーンが好きだ。

最近BSで『麗しのサブリナ』と『ティファニーで朝食を』を観た。アメリカが自信に満ちていた時代の映画だ。夢と自由の国の物語。

年のせいか世相のせいか、オードリーの魅力そっちのけでアメリカ的価値観にばかり関心が向いた。

二つの物語のテーマはおよそ同一だ。成金に憧れつつ結局は純粋無垢な愛を選ぶということに尽きる。

ハリウッド十八番のテーマだ。

アメリカ国民は、さらにはアメリカに憧れた私たち世界中の大衆が、このハリウッドの美しい物語から大いなる娯楽を享受してきたわけだが・・・はたしてアメリカは、そして私たちは、本当に拝金主義を去って清き愛に即いて来ただろうか。

愚問だろう。

実際は逆で、いつも純粋無垢な愛に憧れながら、結局拝金主義にどっぷり浸かってここまで来たのだ。

さらに穿てば、私たちはハリウッド映画を見ながら、顕在意識では愛を選ぶ美しい物語に賛同する自分を祝福しつつ、あるいはそれを免罪符として、潜在意識では映画のプロットの主要部分を占める成金の価値観に対する共感をこそ増殖させてきたのかも知れない。

何もかも金で動かすことのできる大富豪やら、ニューヨークの華麗な日常やらへの憧れ。それがアメリカ映画を見る本当の動機だったのではないだろうか。

アメリカこそ、いやハリウッドこそ世界の愛と拝金にまつわる欺瞞を象徴する存在である。

その象徴中の象徴があの絢爛豪華なアカデミー賞授賞式だろう。今年の授賞式は昨日執り行われた。

究極の成金趣味とスノビズムの祭典。そこでの愛と人道の謳歌。

テレビで式を垣間見る度に感じて来たこの矛盾を今回ほど強く感じたことは無い。

オードリーの実人生を知ると、それがこの欺瞞と矛盾に投げかける強烈な皮肉のようにも思えてくる。

アメリカ全盛時代の物語、つまり本来のアメリカの価値観が、今のアメリカの荒廃を生み出したのだ。

トランプ大統領に牙を剥くグローバリズム・リベラル勢力もトランプ大統領自身も、この同じ価値観から生れ出た異形の双子だ。

しかし、それはアメリカの話で終わらない。私たち日本人もまたその他の国の人々も、少なくとも20世紀の半ば以降、アメリカの価値観、矛盾に満ちた価値観を追いかけてきたのだから。

毎日毎日日本のテレビで繰り返される「セレブ」なるものに対する賛歌を見よ。

この欺瞞からすぐに抜け出すことはできないだろう。欺瞞を自覚することがささやかな歯止になることは確かだろう。自覚しなければさらに住みにくい世界に向かって行かざるを得ないだろう。

2016年11月13日日曜日

トランプはどこだ? 二つの箱の中を探せ

あたかもトランプ現象またはトランプショックが分断をもたらしたかのように喧伝されている。

話は逆で、抜き差しならぬ分断が大きくなりすぎたからトランプが出現したのだ。

ヒラリーとトランプ、オバマとトランプが表向きまたは政治的に和解劇を演出しているにも関わらず、一部アメリカ国民が暴動まがいの反トランプデモを行い、それを例によってメディアが煽っている。

ここで良識あるアメリカ国民と日本人を含む世界の人たちに必要なのは、戦うべき相手が誰なのかを冷静に見極めることだろう。

先ず確かめなくてはならない。トランプはどこだ?

トランプは四つの箱のうち二つのどちらかにいる。

ビジネスパーソン向けのセミナーなどで多用される手法を使おう。やや乱暴だが実用的なツールである。

四つの象限による分類だ。

横軸の左側にグローハリズム志向、右側にナショナリズム志向を置く。

縦軸の上側に平和志向、下側に紛争志向を置く。

出来上がった四つの箱を左上から反時計回りに「グ平」箱、「グ争」箱、「ナ争」箱、「ナ平」箱と呼ぼう。

反トランプ派は、トランプがナ争箱にいると言って攻撃していると見ることが出来る。

トランプとその支持者が人種差別、宗教差別、女性蔑視を通してアメリカを引き裂き、それが排外主義となって世界に波及し、世界中に紛争と戦争をまき散らすと考えているようだ。

ここで最も重要なことは、善良な反トランプ派が自分の仲間はすべてグ平箱に住んでいると思い込んでいることだ。

さらに、彼らはナショナリストがすべて好戦的で排他的だと信じこんでいる。つまり、彼らはナ平箱とその住人の存在を認めていないのだ。

すなわち、善良な反トランプ派の人々には、ここで仮定している四象限が見えていない。対立軸が一本しかなくて、グローバリスト=平和主義者 対 ナショナリスト=好戦的排他主義者 の構図になっているのだ。

一般に、人がある対象に強い嫌悪感ないし怒りを感じるとき、特にその感情が反射的に湧きあがるときには、一息置いて冷静にその嫌悪感の源泉を省みた方がいい。

知らず知らずのうちに不合理な偏見に支配されているかも知れないからだ。洗脳されているかもしれない!

さあ、果たしてグローバリストは全て平和主義者なのだろうか。また、ナショナリストはすべて好戦的な差別主義者なのだろうか。

ここから議論を始めないと、真の敵を見誤る。味方を攻撃してしまう。オウンゴールをやらかしてしまう。

最初の論点に戻ろう。人種差別、宗教差別、女性蔑視によって分断された今のアメリカを作ったのは、トランプ支持者やナショナリストたちだっただろうか。

人種差別、宗教差別、ジェンダー差別は、グローバリストの間には存在しないのだろうか。

人種差別、宗教差別、ジェンダー差別は、建国以来アメリカに存在した。その是正が長い紆余曲折の歴史を通じて行われてきたというのが真実だろう。

では今更それが爆発しなければならない原因はどこにあるのだろう。トランプ的人間が出てきたからだというのは説明になっていない。

ジェンダー差別は別件逮捕だからさておくとして、人種差別、宗教差別の圧力の高まりは、一つには国内産業の衰退による白人貧困層と不法移民を含む移民の間の労働機会の奪い合いが原因だろう。もう一つの原因は、中東地域の様々な紛争とそれらに関連するテロの頻発を淵源とするイスラム教徒の移民の増加と彼らに対する偏見の高まりだろう。

この二つの原因を作り出したのは、トランプ的アメリカ、すなわちナショナリストの仕業ではない。

これらの原因を作り出したのは、国内産業を空洞化させたマルチナショナルビッグビジネスであり、石油その他天然資源をコントロールするために関係諸国の政治と紛争に介入し続けるグローバリストたちである。

しかも彼らはその罪の隠ぺいのために、口では世界は一つ、人類はみな平等、人権第一を歌い上げている。

このシステムの中心にいる勢力は、例の四象限で言えば、グ争箱に巣くっている連中だ。彼らこそ本物のグローバリストであり、善良で純真なグ平箱の人々を騙してナショナリストたちへの攻撃にむかわせているのだ。

このグローバリストたちから多額の資金を得て政治を動かしている政治家の代表格は、ヒラリークリントンだ。

このからくりに気が付けば、グ平派の人々は、グローバリズムの罪深さを悟ってナ平箱へと移転して来るはずではないか。

それでもなおナショナリズムという言葉の響きに強い抵抗を持つ人々に問いたい。

自国の文化、伝統、国土を愛しその利益を優先する国民は、悪人なのだろうか。それらの国民同士は、争いをする以外にないのだろうか。

異なる文化、異なる思想、異なる歴史、異なる利害を持つもの同士が、互いに相手を認めあい、尊重し、共存の道を求めて妥協点を探ることこそが、私たちの目指す国際社会なのではないのか。

ならばなぜ、ナショナリズムを憎まなければならないのか。世界を一つにしてあらゆる国境をなくさなければ仲良くなれないというのは、論理の飛躍であり、非現実的な考えだ。

それどころか、この考えこそが問題を深刻化させてきたことを銘記しなければならない。

今こそグローバリズムの内包する矛盾と欺瞞に気付く時だ。

グロバリズムの頂点にいる連中は、いくつもの国に会社を持ち、いくつもの国に預金口座を持ち、いくつもの国に投資し、豪華ヨットや自家用ジェットで世界中を駆け回り、主に英語を話し、世界中の同類たちと高価な酒を酌み交わしながら情報交換をしている連中である。

そして彼らは、いくつもの国に高い壁で囲った屋敷を持ち暮らしている。決して善良無垢な各国国民と生活空間をともにするような輩ではない。、

あなたたちがどんなに崇敬し、憧れ、慕おうと、決してあなたたちを大事にしてくれるような人たちではない。

最後に、あなたたちはどの箱にいるのか。

2016年8月16日火曜日

百田尚樹『カエルの楽園』の意味

あまりに単純素朴で何のヒネリもない寓話だ。結末は読み始めから見えている。

寓話の価値は、単純な例え話を使って分かりにくい真実に気付かせてくれること。

この本の寓意はあまりに当たり前過ぎて、私に何の新しい気付きも与えてくれない。多くの大人の読者に共通の感想だろう。

一方、いわゆる第9条信者にとって、百田尚樹の本など目にするだに汚らわしいだろうから、彼らが読んで何かに気付くことなどあり得ない。

多くの小学生か中学生に読んでもらいたい本だ。

現代日本という特異な言論世界以外では童話としてしか成立しない本だ。

2015年8月2日日曜日

日本の議論(3) コント「熱中症対策」

(注意: このコントはフィクションです。某国の国会論戦とはなんの関係もありません。延々続きます。ウンザリしたところで読むのやめてください。最後まで読んでも、何の役にも立ちません。)

ヒノモト中学の職員会議で・・・

生活安全対策担当の教員A: お手元のプリントをご覧下さい。今年生徒に配布する「夏休みの注意事項」に「熱中症予防のため外出時には十分な飲料水を携行すること」という一項を付け加えることを提案いたします。

教員B: どうして飲料水の携行が必要なんですか。

A: いやー、どうしてって、最近熱中症患者発生のニュースが頻繁に報道されていますし・・・

B: そんなことはわかっているんですが、なぜ飲料水が必要なんですかと質問しているんですよ。ちゃんと質問を聞いてくださいよ。

A: えっ、脱水症を予防するために水分を取らなければいけないというのは、医学的にも・・・

B: ちょっと待ってください。脱水症?あなたが提案しているのは熱中症の予防のことではないんですか。

A: いやいや・・・脱水症が熱中症を引き起こすというか、脱水症だから熱中症になるというか・・・確かそうですよね。でしょ??

B: そうですよねって、あなたが提案しているのでしょう。そんなこともわかっていないのに提案しているんですか。

A: ・・・

B: じゃ、お聞きしますが、脱水症にならなくても熱中症になるケースというのは医学的にありえないと、こう、あなたは主張するんですか。

A: はぁ・・・そういうこともあるかもしれませんが・・・

B: そもそも、水だけでいいんですか? 塩分についてなんで書かないんですか。

A: そりゃ、塩分も・・・

B: マグネシウムは?

A: ・・・

B: 答えてくださいよ。熱中症をあなたはなめてるんじゃないんですか。熱中症で死ぬ人もあるんですよ。え!

A: わかってますよ。だから今回注意事項に加えるべきだと・・・

B: じゃー、一体、どれだけの飲料水を持ち歩けば、熱中症にならないんですか。100ミリリットル?500ミリリットル?それとも1000CC?!

A: それはそのときの気温にもよると思いますし、本人の体調や、体格にも・・・

B: いいでしょう。じゃーですよ。例えば体重60キロ、身長170センチの男子の場合はどうですか。

A: そんなー・・・ 気温にもよるでしょうし。

B: 気温にもよる? じゃー湿度は関係ないとでも言うのですか。驚いたなこりゃー! たいした医学的根拠だ!

A: ・・・

B: そんないい加減な知識で、この重大な問題の対策を提案しているわけですか。あきれてものが言えませんね。じゃーね、あなたは、「飲料水」と書いていますが、これは水道水のことを言っているのですか。

A: いや、別に水道水でなくても、井戸水でもいいし、ポカリスエットでもなんでも・・・

B: バカなこと言わないでくださいよ。井戸水って、それは、飲料適格検査をちゃんと通しているんですか。

A: じゃ、井戸水は除外するということに・・・

B: 井戸水撤回するんですか。たった一分前の発言をもう、撤回するんですか。なんていい加減な回答なんですか。言ったことをそうやってころころ変えないでくださいよ。

A: ・・・

B: いいでしょう。私はもともと井戸水の話なんか、話そうとしたんじゃないんです。あなたがそんな無謀な議論を始めるからでしょ。それよりA先生、いま、ぽろっと本音が出ちゃいましたよね。ね!

A: 何のことです??

B: 井戸水のあとですよ、えっ!

A: 井戸水のあとって???

B: ポカリスエットってはっきり言ったでしょ、えっ?! A先生、とぼけるつもりですか。そうは行きませんよ。ほかの先生も聞きましたよね。

A: あぁ、ポカリスエットって言いましたけど。それが何か? 別にアクエリアスでもいいですけど。

B: アクエリアスでもいい? おとぼけがうまいですねー。そりゃー、ポカリでもアクエでもいいでしょうよ。

A: ・・・ どういうことですか???

B: じゃー、言ってもいいんですね。あなた先週の金曜の夜、どこにいました?

A: 先週の金曜??? 何ですかいきなり。

B: とぼけないでくださいよ。いいでしょう、時間の無駄ですから私のほうから言いましょう。私偶然見たんですよ、A先生が、あの晩、帰宅途中、ヨネクニ商店の奥さんとヒソヒソ話し込んでるのを。

A: ヒソヒソ・・・話し込んでる・・・??? ああ、あの日は珍しく早めに学校を出られて、ヨネクニ商店まだやっていたんで、カップラーメンを買ったんですよ。そしたら奥さんが、うちの子がいつもお世話になってますって言うんで・・・

B: あそこの子は、二年のときからA先生のクラスでしたよね。

A: そうですよ。だからお母さんとは何回も話したことがありますし・・・

B: 何回も・・・話したことが? それだけですか。

A: なっ、なんです。それだけかって?

B: うーん・・・顔色が変わりましたね。確かに変わりましたよ。

A: イッタイ、ナニイッテンデスカ!!

B: いやいや、何も言ってませんよ。どうせ、はっきりした証拠はない訳だし。ただのうわさだって言われりゃー、それまでだし。

A:  つまらない言いがかりはやめてください!!

B: ま、そう興奮しないで。でもね、あそこのご主人、二年前に癌でなくなってますよねぇ。

A:  だから何だって言うんですかあー!!!

B: A先生、ヨネクニ商店の前には自動販売機が3台置いてありますよね。ポカリ、アクエも、そのほかにもたくさん飲料水を売ってますよね。

A: イッタイ、なんの話なんですか?!

B: じゃー、はっきり言いましょう。今度の件は、ヨネクニの奥さんに頼まれたんじゃないですか?

A: バカもいい加減にしてください。第一、飲料水なら、ヨネクニじゃなくたって、そこらじゅうのコンビニとか・・・自動販売機だって町中にたくさん・・・

B: そりゃ、ほかでも買うことは可能ですよ。でも、うちの生徒のほとんどにとって、一番便利に利用できるのがヨネクニの自動販売機じゃないんですかね。

A: そんなこと知りませんよ。

B: いったい、うちの生徒が清涼飲料水を買う場合、何パーセントがヨネクニの自動販売機を利用しているのですか。

A: そんなこと・・・

B: この提案について、事前に父兄の意見を聴取しているんですか?

A: ・・・

B: まさか一人も意見聞いていないんですか?

A: そんな必要・・・

B: えーーーー! こんな重要な件で、父兄の意見なんか聞く必要ないなんて言うんですかー? 生徒の健康に対する重大な脅威について、父兄の意見なんてって。いま、あなた、そう言いましたよね。

A: 言ってないって。そんな必要もあったかもって言おうとしたんですよ。

B: そもそも、なんでいきなり「外出時に・・・」なんですか。外出しないことのほうが効果的でしょ。必要の無い限り外出しないようにとなぜまず書かないんですか。これじゃ、外出するのが前提というか、むしろ暑いさなかに外出を促しているも同然じゃないですか。あなたは、生徒をわざわざ生命の危険のある炎天下に誘い出すつもりなんですか?

A: そんなわけないじゃないですか!

B: 校長先生、こんな重大な問題で、しかも、こんなに問題だらけの議題をですよ、今日一日で決めるなんてとんでもないと思うんですが。

A: だって来週から夏休み始まっちゃうし・・・

B: 去年の夏休みの注意事項には、この項目はなかったじゃないですか。なんで、今年になっていきなり、しかもこんな、夏休みの直前になって提案するんですか?

A: 春のうちからこんなこと話し合うわけにいかない・・・・

B: 今年の夏休みに間に合わせる必要はないでしょう。生徒の命にかかわる問題ですよ。軽々に結論を出さず、来年の夏までじっくり話し合ったらいいじゃないですか。去年はなかったんだし、来年まで待てないで今年じゃなきゃいけない根拠はあるんですか。

A: そんな、根拠ったって・・・

B: わかってますよ。ホントはどうでもいいんでしょ。生徒の健康なんて。生徒の命なんて。生徒のことを本気で考えてるんだったら、水だけじゃなくて、塩分のことだって、マグネシウムだって、そもそも、外出制限のことに触れてないことが、何よりの証拠だ。あんたはただヨネクニに頼まれて、自動販売機の売り上げを上げりゃーいいって・・・

A: もういいです!! 提案撤回します!

B: ナニ、テッカイ?! ズボシだったんでしょ!! 重要な提案じゃ無かったんですか。今更撤回なんて無責任な!

A: イイカゲンニーー、シロッ!!

A+B: アリガトーゴザイマシターー!


日本の議論(2) 「地球が何回まわったとき?!」

今は三十を過ぎた息子が小学生だったころ、何回か少年たちの「論争」を聞いたことがある。

彼らの「論争」での常套句が面白かった。

それはあらゆる「論争」において最強の「反論」を構成する万能の呪文であった。

「地球が何回まわったとき?!」

例えば、こんなふうに。

A 「トラのほうがライオンより強いんだぜ」
B 「ライオンのほうが強いに決まってるよ」

以上が何回か繰り返されて、

A 「この前テレビで言ってたよ」
B 「へー、何年何月何日何曜日、何時何分何秒、地球が何回まわったとき?!」

トラのほうでもライオンのほうでも、これを先に言ったほうが勝ち誇った顔をし、言われたほうは「反論」できずに悔しがるのだった。

実に子供らしい「論争」で、聞くたびに「またやっているよ」と笑ってしまうのだが、考えてみると我々おとなの世界でも、本質的に同様の議論が盛んなことに気付き、笑えない思いにとらわれる。

「そんなことは、聞いていなかった」
「十分に議論をすべき問題だ」
「早急に決めるべき事柄ではない」
「反対者も多数いるのだから」
「根回しが十分ではない」
「以前に言っていたことと違う」
「説明が不十分だ」
「全員の腹に落ちるまでに至っていない」
「この場に持ち出すべき議論ではない」
「順番が逆だ」
「何様と思っているのだ」
「言い方が悪い」
「それは本音とは思えない」
「あの時はそんなつもりで賛成したのではない」
「言っているヤツが気に食わない」
「国民感情を考慮すべきだ」

まだまだありそうだ。

もちろん、場合によりこれらを言ってもかまわないし、言うべきときもある。

しかし、これらは単独では反論になっていないことを認識すべきだ。

なんら、実質的な、本質的な議論を含んでいない。

反論とは、なぜ相手の言うことが正しくないのか、自分はどうしたいのか、すべきと考えるのか、それはなぜなのか、を明確に含んでいなければならない。

私は、米系、英系、オランダ系の会社での勤務が合計で二十数年に及んだが、そのどこでも、上のような文句を「反論」の根拠とするような議論はまれに見られても、その場合それらの「意見」が重視されることはなく、たいていの場合、無視されるか軽蔑さえされた。

何の本質的な主張を含まず、ただ、議論を停滞させるだけで、その進展に何の貢献もしないからだ。

かたや日本では、会社でも地域でも、果ては国会でも、こんな「議論」が論争の主要な部分を占める場合が、少なくないように見える。

わたしは「西洋カブレ」でも「反日家」でもなく、日本文化文明に強い誇りを持っているが、このことに関しては、私たち日本人に反省の必要があるとかねがね感じている。


2015年7月29日水曜日

日本の議論(1) 日経とFT 発行部数で考える日本の民主主義

日経がFTを買収する。

面白いニュースだ。

親となった日経が経営上よくFTを御することが出来るかどうかも見ものだが、その話ではない。

日経の発行部数は280万、デジタル有料読者が43万だそうだ。かたやFTの合計読者数は70万、うち50万がデジタル版の有料読者。

しかも日経の読者はほとんど日本人に限られるが、FTの読者は世界中に広がる。それでも、この圧倒的な差は一体何を意味するのか。

FTの記者がこの買収について意見を求められて、「日経のことを何も知らないのでこれから調べる」と答えていたのが印象的だ。

FTは世界のメディア中最も信頼されるメディアだ。世界のリーダーでFTの記事を読まない者はいないと言っていいだろう。

日本に関する記事、とくに近現代史がらみで、違和感があるものはあるが、全般的に国際的な取材力、分析力はいわゆるクオリティーペーパーの中でも抜きん出ていると思う。

ニューヨークタイムズ、ワシントンポストより優れていると思う。

例えば、ソ連の崩壊をいち早く予測した特集記事を読んだときのことは忘れられない。素晴らしい分析だった。

さて、つまり、発行部数と記事のクオリティーの間に、正の相関はないということだ。それどころか、ある意味、負の相関が疑われる。

日経、FTなど、個別メディアの問題ではなく、一般論として重大なテーマがここに含まれている。

民主主義の本質にかかわる問題だ。

骨董、芸術に限らず、政治、経済の洞察においても、目利きは常に少数派だ。

率直に言えば、大多数は本質を掴めないのだ。これが民主主義のパラドックスであり、ジレンマでさえある。

民主主義において、大衆の意見がものをいうことは勿論だ。

しかし、世論が目利きによってリードされなくては良い民主主義が実践され得ないという認識が国民の間に厳格に共有されていなければ、衆愚政治の罠から逃れることが出来ない。

よしんば国民大多数によって共有されないまでも、少なくとも政治家やメディアによって信じられていなければ、国民は、縫いぐるみの民主主義に愚弄され続けるほかない。

民主主義のもっとも進んでいるとされる欧米先進国において、クオリティーペーパーの発行部数は、日本と比較すると驚くほど小さい。

前述のごとく、FTで言えばほんの70万。それも世界全体での話だ。日経は280万プラスデジタル43万。日本だけで。

ニューヨークタイムズでもタイムズでもルモンドでもフィガロでもFTと状況は同じだ。

アメリカでもイギリスでもフランスでも、大衆は大衆向けのメディアしか読まないのだ。しかし、世論をリードするのは、もしくは誘導するのは圧倒的少数のエリートたちの知見だ。

日本の世論形成は、いわゆる先進国の中では特殊なのだ。

日本での世論は、主婦の井戸端会議や、サラリーマンの居酒屋談義や、それらに限りなく似せたニュース番組によって作られる。

だから、政治家が国会の中で反対勢力の悪口を書いたプラカードなどをテレビカメラに見せびらかしてわめいたりするのだ。

大衆が政治家に向かって訴えているのではない。政治家が大衆に同意を求めているのだ。感情的な同意を。

今回の安保法制論議を見ても、野党は細かい専門概念や限定条件や留保条件を削って、「ほらやっぱり外国を攻撃できるようにする法案じゃないですか。」などと目をむいて見せ、答える与党も、複雑な国際法上の議論などはテレビの視聴者には理解されないと思うから、そこは敢えてはぐらかして、野党の誘導する悪い印象を払拭しようと「わかり易い」たとえ話などで四苦八苦したりするのだろう。

どこの国でも大衆が複雑な事象を理解できないという状況は変わらない。その点日本が特殊なのではない。

日本が特殊なのは、専門家、学者、見識あるジャーナリスト、政治家の意見を大衆が尊重するのではなく、大衆こそが正しく判断する目を持っているという幻想が、あるいはまやかしが、この国の「民主主義」の公式の前提として崇め奉られていることだ。

そこでは、「よくわかるように説明しろ」という台詞が「反対意見」として万能の切り札になる。

この間違った前提を正さない限り、日本の民主主義の進化はあり得ない。

日本の有力紙、有力メディアが、つねに大衆読者を対象としているとすれば、そこでの論調、解説の品質は限定されざるを得ない。

日経のFT買収は、おそらくFTの記事に何の変化ももたらさないだろう。FTの記者や編集者が日経の影響を受けるはずがないし、日経も記事、編集の独立性を保障すると言っている。

逆に、日経の記事の内容や性格が変わることもないだろう。読者が変わらないのだから。

今回の買収が、日本の民主主義の進化に何らかの貢献をするだろう理由は、残念だが見当たらない。