今は三十を過ぎた息子が小学生だったころ、何回か少年たちの「論争」を聞いたことがある。
彼らの「論争」での常套句が面白かった。
それはあらゆる「論争」において最強の「反論」を構成する万能の呪文であった。
「地球が何回まわったとき?!」
例えば、こんなふうに。
A 「トラのほうがライオンより強いんだぜ」
B 「ライオンのほうが強いに決まってるよ」
以上が何回か繰り返されて、
A 「この前テレビで言ってたよ」
B 「へー、何年何月何日何曜日、何時何分何秒、地球が何回まわったとき?!」
トラのほうでもライオンのほうでも、これを先に言ったほうが勝ち誇った顔をし、言われたほうは「反論」できずに悔しがるのだった。
実に子供らしい「論争」で、聞くたびに「またやっているよ」と笑ってしまうのだが、考えてみると我々おとなの世界でも、本質的に同様の議論が盛んなことに気付き、笑えない思いにとらわれる。
「そんなことは、聞いていなかった」
「十分に議論をすべき問題だ」
「早急に決めるべき事柄ではない」
「反対者も多数いるのだから」
「根回しが十分ではない」
「以前に言っていたことと違う」
「説明が不十分だ」
「全員の腹に落ちるまでに至っていない」
「この場に持ち出すべき議論ではない」
「順番が逆だ」
「何様と思っているのだ」
「言い方が悪い」
「それは本音とは思えない」
「あの時はそんなつもりで賛成したのではない」
「言っているヤツが気に食わない」
「国民感情を考慮すべきだ」
まだまだありそうだ。
もちろん、場合によりこれらを言ってもかまわないし、言うべきときもある。
しかし、これらは単独では反論になっていないことを認識すべきだ。
なんら、実質的な、本質的な議論を含んでいない。
反論とは、なぜ相手の言うことが正しくないのか、自分はどうしたいのか、すべきと考えるのか、それはなぜなのか、を明確に含んでいなければならない。
私は、米系、英系、オランダ系の会社での勤務が合計で二十数年に及んだが、そのどこでも、上のような文句を「反論」の根拠とするような議論はまれに見られても、その場合それらの「意見」が重視されることはなく、たいていの場合、無視されるか軽蔑さえされた。
何の本質的な主張を含まず、ただ、議論を停滞させるだけで、その進展に何の貢献もしないからだ。
かたや日本では、会社でも地域でも、果ては国会でも、こんな「議論」が論争の主要な部分を占める場合が、少なくないように見える。
わたしは「西洋カブレ」でも「反日家」でもなく、日本文化文明に強い誇りを持っているが、このことに関しては、私たち日本人に反省の必要があるとかねがね感じている。
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