(注意: このコントはフィクションです。某国の国会論戦とはなんの関係もありません。延々続きます。ウンザリしたところで読むのやめてください。最後まで読んでも、何の役にも立ちません。)
ヒノモト中学の職員会議で・・・
生活安全対策担当の教員A: お手元のプリントをご覧下さい。今年生徒に配布する「夏休みの注意事項」に「熱中症予防のため外出時には十分な飲料水を携行すること」という一項を付け加えることを提案いたします。
教員B: どうして飲料水の携行が必要なんですか。
A: いやー、どうしてって、最近熱中症患者発生のニュースが頻繁に報道されていますし・・・
B: そんなことはわかっているんですが、なぜ飲料水が必要なんですかと質問しているんですよ。ちゃんと質問を聞いてくださいよ。
A: えっ、脱水症を予防するために水分を取らなければいけないというのは、医学的にも・・・
B: ちょっと待ってください。脱水症?あなたが提案しているのは熱中症の予防のことではないんですか。
A: いやいや・・・脱水症が熱中症を引き起こすというか、脱水症だから熱中症になるというか・・・確かそうですよね。でしょ??
B: そうですよねって、あなたが提案しているのでしょう。そんなこともわかっていないのに提案しているんですか。
A: ・・・
B: じゃ、お聞きしますが、脱水症にならなくても熱中症になるケースというのは医学的にありえないと、こう、あなたは主張するんですか。
A: はぁ・・・そういうこともあるかもしれませんが・・・
B: そもそも、水だけでいいんですか? 塩分についてなんで書かないんですか。
A: そりゃ、塩分も・・・
B: マグネシウムは?
A: ・・・
B: 答えてくださいよ。熱中症をあなたはなめてるんじゃないんですか。熱中症で死ぬ人もあるんですよ。え!
A: わかってますよ。だから今回注意事項に加えるべきだと・・・
B: じゃー、一体、どれだけの飲料水を持ち歩けば、熱中症にならないんですか。100ミリリットル?500ミリリットル?それとも1000CC?!
A: それはそのときの気温にもよると思いますし、本人の体調や、体格にも・・・
B: いいでしょう。じゃーですよ。例えば体重60キロ、身長170センチの男子の場合はどうですか。
A: そんなー・・・ 気温にもよるでしょうし。
B: 気温にもよる? じゃー湿度は関係ないとでも言うのですか。驚いたなこりゃー! たいした医学的根拠だ!
A: ・・・
B: そんないい加減な知識で、この重大な問題の対策を提案しているわけですか。あきれてものが言えませんね。じゃーね、あなたは、「飲料水」と書いていますが、これは水道水のことを言っているのですか。
A: いや、別に水道水でなくても、井戸水でもいいし、ポカリスエットでもなんでも・・・
B: バカなこと言わないでくださいよ。井戸水って、それは、飲料適格検査をちゃんと通しているんですか。
A: じゃ、井戸水は除外するということに・・・
B: 井戸水撤回するんですか。たった一分前の発言をもう、撤回するんですか。なんていい加減な回答なんですか。言ったことをそうやってころころ変えないでくださいよ。
A: ・・・
B: いいでしょう。私はもともと井戸水の話なんか、話そうとしたんじゃないんです。あなたがそんな無謀な議論を始めるからでしょ。それよりA先生、いま、ぽろっと本音が出ちゃいましたよね。ね!
A: 何のことです??
B: 井戸水のあとですよ、えっ!
A: 井戸水のあとって???
B: ポカリスエットってはっきり言ったでしょ、えっ?! A先生、とぼけるつもりですか。そうは行きませんよ。ほかの先生も聞きましたよね。
A: あぁ、ポカリスエットって言いましたけど。それが何か? 別にアクエリアスでもいいですけど。
B: アクエリアスでもいい? おとぼけがうまいですねー。そりゃー、ポカリでもアクエでもいいでしょうよ。
A: ・・・ どういうことですか???
B: じゃー、言ってもいいんですね。あなた先週の金曜の夜、どこにいました?
A: 先週の金曜??? 何ですかいきなり。
B: とぼけないでくださいよ。いいでしょう、時間の無駄ですから私のほうから言いましょう。私偶然見たんですよ、A先生が、あの晩、帰宅途中、ヨネクニ商店の奥さんとヒソヒソ話し込んでるのを。
A: ヒソヒソ・・・話し込んでる・・・??? ああ、あの日は珍しく早めに学校を出られて、ヨネクニ商店まだやっていたんで、カップラーメンを買ったんですよ。そしたら奥さんが、うちの子がいつもお世話になってますって言うんで・・・
B: あそこの子は、二年のときからA先生のクラスでしたよね。
A: そうですよ。だからお母さんとは何回も話したことがありますし・・・
B: 何回も・・・話したことが? それだけですか。
A: なっ、なんです。それだけかって?
B: うーん・・・顔色が変わりましたね。確かに変わりましたよ。
A: イッタイ、ナニイッテンデスカ!!
B: いやいや、何も言ってませんよ。どうせ、はっきりした証拠はない訳だし。ただのうわさだって言われりゃー、それまでだし。
A: つまらない言いがかりはやめてください!!
B: ま、そう興奮しないで。でもね、あそこのご主人、二年前に癌でなくなってますよねぇ。
A: だから何だって言うんですかあー!!!
B: A先生、ヨネクニ商店の前には自動販売機が3台置いてありますよね。ポカリ、アクエも、そのほかにもたくさん飲料水を売ってますよね。
A: イッタイ、なんの話なんですか?!
B: じゃー、はっきり言いましょう。今度の件は、ヨネクニの奥さんに頼まれたんじゃないですか?
A: バカもいい加減にしてください。第一、飲料水なら、ヨネクニじゃなくたって、そこらじゅうのコンビニとか・・・自動販売機だって町中にたくさん・・・
B: そりゃ、ほかでも買うことは可能ですよ。でも、うちの生徒のほとんどにとって、一番便利に利用できるのがヨネクニの自動販売機じゃないんですかね。
A: そんなこと知りませんよ。
B: いったい、うちの生徒が清涼飲料水を買う場合、何パーセントがヨネクニの自動販売機を利用しているのですか。
A: そんなこと・・・
B: この提案について、事前に父兄の意見を聴取しているんですか?
A: ・・・
B: まさか一人も意見聞いていないんですか?
A: そんな必要・・・
B: えーーーー! こんな重要な件で、父兄の意見なんか聞く必要ないなんて言うんですかー? 生徒の健康に対する重大な脅威について、父兄の意見なんてって。いま、あなた、そう言いましたよね。
A: 言ってないって。そんな必要もあったかもって言おうとしたんですよ。
B: そもそも、なんでいきなり「外出時に・・・」なんですか。外出しないことのほうが効果的でしょ。必要の無い限り外出しないようにとなぜまず書かないんですか。これじゃ、外出するのが前提というか、むしろ暑いさなかに外出を促しているも同然じゃないですか。あなたは、生徒をわざわざ生命の危険のある炎天下に誘い出すつもりなんですか?
A: そんなわけないじゃないですか!
B: 校長先生、こんな重大な問題で、しかも、こんなに問題だらけの議題をですよ、今日一日で決めるなんてとんでもないと思うんですが。
A: だって来週から夏休み始まっちゃうし・・・
B: 去年の夏休みの注意事項には、この項目はなかったじゃないですか。なんで、今年になっていきなり、しかもこんな、夏休みの直前になって提案するんですか?
A: 春のうちからこんなこと話し合うわけにいかない・・・・
B: 今年の夏休みに間に合わせる必要はないでしょう。生徒の命にかかわる問題ですよ。軽々に結論を出さず、来年の夏までじっくり話し合ったらいいじゃないですか。去年はなかったんだし、来年まで待てないで今年じゃなきゃいけない根拠はあるんですか。
A: そんな、根拠ったって・・・
B: わかってますよ。ホントはどうでもいいんでしょ。生徒の健康なんて。生徒の命なんて。生徒のことを本気で考えてるんだったら、水だけじゃなくて、塩分のことだって、マグネシウムだって、そもそも、外出制限のことに触れてないことが、何よりの証拠だ。あんたはただヨネクニに頼まれて、自動販売機の売り上げを上げりゃーいいって・・・
A: もういいです!! 提案撤回します!
B: ナニ、テッカイ?! ズボシだったんでしょ!! 重要な提案じゃ無かったんですか。今更撤回なんて無責任な!
A: イイカゲンニーー、シロッ!!
A+B: アリガトーゴザイマシターー!
2015年8月2日日曜日
日本の議論(2) 「地球が何回まわったとき?!」
今は三十を過ぎた息子が小学生だったころ、何回か少年たちの「論争」を聞いたことがある。
彼らの「論争」での常套句が面白かった。
それはあらゆる「論争」において最強の「反論」を構成する万能の呪文であった。
「地球が何回まわったとき?!」
例えば、こんなふうに。
A 「トラのほうがライオンより強いんだぜ」
B 「ライオンのほうが強いに決まってるよ」
以上が何回か繰り返されて、
A 「この前テレビで言ってたよ」
B 「へー、何年何月何日何曜日、何時何分何秒、地球が何回まわったとき?!」
トラのほうでもライオンのほうでも、これを先に言ったほうが勝ち誇った顔をし、言われたほうは「反論」できずに悔しがるのだった。
実に子供らしい「論争」で、聞くたびに「またやっているよ」と笑ってしまうのだが、考えてみると我々おとなの世界でも、本質的に同様の議論が盛んなことに気付き、笑えない思いにとらわれる。
「そんなことは、聞いていなかった」
「十分に議論をすべき問題だ」
「早急に決めるべき事柄ではない」
「反対者も多数いるのだから」
「根回しが十分ではない」
「以前に言っていたことと違う」
「説明が不十分だ」
「全員の腹に落ちるまでに至っていない」
「この場に持ち出すべき議論ではない」
「順番が逆だ」
「何様と思っているのだ」
「言い方が悪い」
「それは本音とは思えない」
「あの時はそんなつもりで賛成したのではない」
「言っているヤツが気に食わない」
「国民感情を考慮すべきだ」
まだまだありそうだ。
もちろん、場合によりこれらを言ってもかまわないし、言うべきときもある。
しかし、これらは単独では反論になっていないことを認識すべきだ。
なんら、実質的な、本質的な議論を含んでいない。
反論とは、なぜ相手の言うことが正しくないのか、自分はどうしたいのか、すべきと考えるのか、それはなぜなのか、を明確に含んでいなければならない。
私は、米系、英系、オランダ系の会社での勤務が合計で二十数年に及んだが、そのどこでも、上のような文句を「反論」の根拠とするような議論はまれに見られても、その場合それらの「意見」が重視されることはなく、たいていの場合、無視されるか軽蔑さえされた。
何の本質的な主張を含まず、ただ、議論を停滞させるだけで、その進展に何の貢献もしないからだ。
かたや日本では、会社でも地域でも、果ては国会でも、こんな「議論」が論争の主要な部分を占める場合が、少なくないように見える。
わたしは「西洋カブレ」でも「反日家」でもなく、日本文化文明に強い誇りを持っているが、このことに関しては、私たち日本人に反省の必要があるとかねがね感じている。
彼らの「論争」での常套句が面白かった。
それはあらゆる「論争」において最強の「反論」を構成する万能の呪文であった。
「地球が何回まわったとき?!」
例えば、こんなふうに。
A 「トラのほうがライオンより強いんだぜ」
B 「ライオンのほうが強いに決まってるよ」
以上が何回か繰り返されて、
A 「この前テレビで言ってたよ」
B 「へー、何年何月何日何曜日、何時何分何秒、地球が何回まわったとき?!」
トラのほうでもライオンのほうでも、これを先に言ったほうが勝ち誇った顔をし、言われたほうは「反論」できずに悔しがるのだった。
実に子供らしい「論争」で、聞くたびに「またやっているよ」と笑ってしまうのだが、考えてみると我々おとなの世界でも、本質的に同様の議論が盛んなことに気付き、笑えない思いにとらわれる。
「そんなことは、聞いていなかった」
「十分に議論をすべき問題だ」
「早急に決めるべき事柄ではない」
「反対者も多数いるのだから」
「根回しが十分ではない」
「以前に言っていたことと違う」
「説明が不十分だ」
「全員の腹に落ちるまでに至っていない」
「この場に持ち出すべき議論ではない」
「順番が逆だ」
「何様と思っているのだ」
「言い方が悪い」
「それは本音とは思えない」
「あの時はそんなつもりで賛成したのではない」
「言っているヤツが気に食わない」
「国民感情を考慮すべきだ」
まだまだありそうだ。
もちろん、場合によりこれらを言ってもかまわないし、言うべきときもある。
しかし、これらは単独では反論になっていないことを認識すべきだ。
なんら、実質的な、本質的な議論を含んでいない。
反論とは、なぜ相手の言うことが正しくないのか、自分はどうしたいのか、すべきと考えるのか、それはなぜなのか、を明確に含んでいなければならない。
私は、米系、英系、オランダ系の会社での勤務が合計で二十数年に及んだが、そのどこでも、上のような文句を「反論」の根拠とするような議論はまれに見られても、その場合それらの「意見」が重視されることはなく、たいていの場合、無視されるか軽蔑さえされた。
何の本質的な主張を含まず、ただ、議論を停滞させるだけで、その進展に何の貢献もしないからだ。
かたや日本では、会社でも地域でも、果ては国会でも、こんな「議論」が論争の主要な部分を占める場合が、少なくないように見える。
わたしは「西洋カブレ」でも「反日家」でもなく、日本文化文明に強い誇りを持っているが、このことに関しては、私たち日本人に反省の必要があるとかねがね感じている。
2015年7月29日水曜日
日本の議論(1) 日経とFT 発行部数で考える日本の民主主義
日経がFTを買収する。
面白いニュースだ。
親となった日経が経営上よくFTを御することが出来るかどうかも見ものだが、その話ではない。
日経の発行部数は280万、デジタル有料読者が43万だそうだ。かたやFTの合計読者数は70万、うち50万がデジタル版の有料読者。
しかも日経の読者はほとんど日本人に限られるが、FTの読者は世界中に広がる。それでも、この圧倒的な差は一体何を意味するのか。
FTの記者がこの買収について意見を求められて、「日経のことを何も知らないのでこれから調べる」と答えていたのが印象的だ。
FTは世界のメディア中最も信頼されるメディアだ。世界のリーダーでFTの記事を読まない者はいないと言っていいだろう。
日本に関する記事、とくに近現代史がらみで、違和感があるものはあるが、全般的に国際的な取材力、分析力はいわゆるクオリティーペーパーの中でも抜きん出ていると思う。
ニューヨークタイムズ、ワシントンポストより優れていると思う。
例えば、ソ連の崩壊をいち早く予測した特集記事を読んだときのことは忘れられない。素晴らしい分析だった。
さて、つまり、発行部数と記事のクオリティーの間に、正の相関はないということだ。それどころか、ある意味、負の相関が疑われる。
日経、FTなど、個別メディアの問題ではなく、一般論として重大なテーマがここに含まれている。
民主主義の本質にかかわる問題だ。
骨董、芸術に限らず、政治、経済の洞察においても、目利きは常に少数派だ。
率直に言えば、大多数は本質を掴めないのだ。これが民主主義のパラドックスであり、ジレンマでさえある。
民主主義において、大衆の意見がものをいうことは勿論だ。
しかし、世論が目利きによってリードされなくては良い民主主義が実践され得ないという認識が国民の間に厳格に共有されていなければ、衆愚政治の罠から逃れることが出来ない。
よしんば国民大多数によって共有されないまでも、少なくとも政治家やメディアによって信じられていなければ、国民は、縫いぐるみの民主主義に愚弄され続けるほかない。
民主主義のもっとも進んでいるとされる欧米先進国において、クオリティーペーパーの発行部数は、日本と比較すると驚くほど小さい。
前述のごとく、FTで言えばほんの70万。それも世界全体での話だ。日経は280万プラスデジタル43万。日本だけで。
ニューヨークタイムズでもタイムズでもルモンドでもフィガロでもFTと状況は同じだ。
アメリカでもイギリスでもフランスでも、大衆は大衆向けのメディアしか読まないのだ。しかし、世論をリードするのは、もしくは誘導するのは圧倒的少数のエリートたちの知見だ。
日本の世論形成は、いわゆる先進国の中では特殊なのだ。
日本での世論は、主婦の井戸端会議や、サラリーマンの居酒屋談義や、それらに限りなく似せたニュース番組によって作られる。
だから、政治家が国会の中で反対勢力の悪口を書いたプラカードなどをテレビカメラに見せびらかしてわめいたりするのだ。
大衆が政治家に向かって訴えているのではない。政治家が大衆に同意を求めているのだ。感情的な同意を。
今回の安保法制論議を見ても、野党は細かい専門概念や限定条件や留保条件を削って、「ほらやっぱり外国を攻撃できるようにする法案じゃないですか。」などと目をむいて見せ、答える与党も、複雑な国際法上の議論などはテレビの視聴者には理解されないと思うから、そこは敢えてはぐらかして、野党の誘導する悪い印象を払拭しようと「わかり易い」たとえ話などで四苦八苦したりするのだろう。
どこの国でも大衆が複雑な事象を理解できないという状況は変わらない。その点日本が特殊なのではない。
日本が特殊なのは、専門家、学者、見識あるジャーナリスト、政治家の意見を大衆が尊重するのではなく、大衆こそが正しく判断する目を持っているという幻想が、あるいはまやかしが、この国の「民主主義」の公式の前提として崇め奉られていることだ。
そこでは、「よくわかるように説明しろ」という台詞が「反対意見」として万能の切り札になる。
この間違った前提を正さない限り、日本の民主主義の進化はあり得ない。
日本の有力紙、有力メディアが、つねに大衆読者を対象としているとすれば、そこでの論調、解説の品質は限定されざるを得ない。
日経のFT買収は、おそらくFTの記事に何の変化ももたらさないだろう。FTの記者や編集者が日経の影響を受けるはずがないし、日経も記事、編集の独立性を保障すると言っている。
逆に、日経の記事の内容や性格が変わることもないだろう。読者が変わらないのだから。
今回の買収が、日本の民主主義の進化に何らかの貢献をするだろう理由は、残念だが見当たらない。
面白いニュースだ。
親となった日経が経営上よくFTを御することが出来るかどうかも見ものだが、その話ではない。
日経の発行部数は280万、デジタル有料読者が43万だそうだ。かたやFTの合計読者数は70万、うち50万がデジタル版の有料読者。
しかも日経の読者はほとんど日本人に限られるが、FTの読者は世界中に広がる。それでも、この圧倒的な差は一体何を意味するのか。
FTの記者がこの買収について意見を求められて、「日経のことを何も知らないのでこれから調べる」と答えていたのが印象的だ。
FTは世界のメディア中最も信頼されるメディアだ。世界のリーダーでFTの記事を読まない者はいないと言っていいだろう。
日本に関する記事、とくに近現代史がらみで、違和感があるものはあるが、全般的に国際的な取材力、分析力はいわゆるクオリティーペーパーの中でも抜きん出ていると思う。
ニューヨークタイムズ、ワシントンポストより優れていると思う。
例えば、ソ連の崩壊をいち早く予測した特集記事を読んだときのことは忘れられない。素晴らしい分析だった。
さて、つまり、発行部数と記事のクオリティーの間に、正の相関はないということだ。それどころか、ある意味、負の相関が疑われる。
日経、FTなど、個別メディアの問題ではなく、一般論として重大なテーマがここに含まれている。
民主主義の本質にかかわる問題だ。
骨董、芸術に限らず、政治、経済の洞察においても、目利きは常に少数派だ。
率直に言えば、大多数は本質を掴めないのだ。これが民主主義のパラドックスであり、ジレンマでさえある。
民主主義において、大衆の意見がものをいうことは勿論だ。
しかし、世論が目利きによってリードされなくては良い民主主義が実践され得ないという認識が国民の間に厳格に共有されていなければ、衆愚政治の罠から逃れることが出来ない。
よしんば国民大多数によって共有されないまでも、少なくとも政治家やメディアによって信じられていなければ、国民は、縫いぐるみの民主主義に愚弄され続けるほかない。
民主主義のもっとも進んでいるとされる欧米先進国において、クオリティーペーパーの発行部数は、日本と比較すると驚くほど小さい。
前述のごとく、FTで言えばほんの70万。それも世界全体での話だ。日経は280万プラスデジタル43万。日本だけで。
ニューヨークタイムズでもタイムズでもルモンドでもフィガロでもFTと状況は同じだ。
アメリカでもイギリスでもフランスでも、大衆は大衆向けのメディアしか読まないのだ。しかし、世論をリードするのは、もしくは誘導するのは圧倒的少数のエリートたちの知見だ。
日本の世論形成は、いわゆる先進国の中では特殊なのだ。
日本での世論は、主婦の井戸端会議や、サラリーマンの居酒屋談義や、それらに限りなく似せたニュース番組によって作られる。
だから、政治家が国会の中で反対勢力の悪口を書いたプラカードなどをテレビカメラに見せびらかしてわめいたりするのだ。
大衆が政治家に向かって訴えているのではない。政治家が大衆に同意を求めているのだ。感情的な同意を。
今回の安保法制論議を見ても、野党は細かい専門概念や限定条件や留保条件を削って、「ほらやっぱり外国を攻撃できるようにする法案じゃないですか。」などと目をむいて見せ、答える与党も、複雑な国際法上の議論などはテレビの視聴者には理解されないと思うから、そこは敢えてはぐらかして、野党の誘導する悪い印象を払拭しようと「わかり易い」たとえ話などで四苦八苦したりするのだろう。
どこの国でも大衆が複雑な事象を理解できないという状況は変わらない。その点日本が特殊なのではない。
日本が特殊なのは、専門家、学者、見識あるジャーナリスト、政治家の意見を大衆が尊重するのではなく、大衆こそが正しく判断する目を持っているという幻想が、あるいはまやかしが、この国の「民主主義」の公式の前提として崇め奉られていることだ。
そこでは、「よくわかるように説明しろ」という台詞が「反対意見」として万能の切り札になる。
この間違った前提を正さない限り、日本の民主主義の進化はあり得ない。
日本の有力紙、有力メディアが、つねに大衆読者を対象としているとすれば、そこでの論調、解説の品質は限定されざるを得ない。
日経のFT買収は、おそらくFTの記事に何の変化ももたらさないだろう。FTの記者や編集者が日経の影響を受けるはずがないし、日経も記事、編集の独立性を保障すると言っている。
逆に、日経の記事の内容や性格が変わることもないだろう。読者が変わらないのだから。
今回の買収が、日本の民主主義の進化に何らかの貢献をするだろう理由は、残念だが見当たらない。
2015年6月14日日曜日
今日、武者人形を飾った
五月五日はとっくに過ぎているのに、何故、武者人形なのか。
いや、端午の節句はまだ来ていない。
本来、節句は旧暦で祝うもの。今日は、旧暦では四月二十七日だ。
桃の花がまだ咲かない桃の節句、菖蒲の花のない端午の節句、梅雨の真っ最中でめったに会えない彦星織姫の七夕は、全て間違いだ。
明治以来、本来旧暦を前提とする伝統行事に新暦を当てはめて来たことは、愚かだ。
今年の端午の節句は6月20日土曜日、七夕は8月20日木曜日だ。
2015年5月15日金曜日
民主主義を信じない人たち
ニュース番組は安保法制議論で盛り上がっている。
これを見るにつけ、日本人の民主主義原理に対する理解の未熟に今更思い至る。
民主主義のさまざまな問題についての議論はひとまず留保しよう。私は、その欠点を認めながら、民主主義政体が現実に採りうる最善の政治体制だと考える。
民主主義政治体制をとる我が日本において、主権は国民に有り、国策決定の資格と責任は国民にある。国民は議院内閣制を通して、間接的に意思決定を行い、その責任を負う。この原理を否定する者は、いかに言い逃れをしようと民主主義者ではない。
民主主義的意思決定の結果、国民と国家は、その決定事項にかかわる権利または義務(あるいはその両方)を持つことになる。
ある特定の義務が生じれば、国民や国家は選択の余地無くその義務を履行しなければならない。一方、ある権利が生じれば、国民や国家はその権利を行使するか否か、選択を許される。
権利行使の是非は、しかるべき法的な手続きを経て決定される。
その決定の基準になるものは、国民や国家の意思と能力とその時の情勢判断などである。言うまでもなく、行使を否決すれば行使する必要は無い。
行使の具体的行動内容についての賛否は別にして、行使の是非の判断能力が国会または内閣にないという前提に立つと、民主主義自体が成り立たない。民主主義の否定である。
「集団的自衛権という権利を認めてしまうと、世界のどこでもアメリカの戦争に参加しなければならない義務が生じる」という議論は、権利と義務を混同する稚拙な議論である。この論者は、民主主義を論じる資格が無い。
「日本の国益に反することでも、アメリカの要求には反対できない」という人も、日本の民主主義の有効性を否定している。もし本当にそうなら、なぜあなたは今反対の声を上げているのか。
集団的自衛権は、国際法上、個別的自衛権と対になって自然権として万国に認められている。国連憲章はこれを明文化している(第51条)。この行使を自ら封じ込めていたのは国連加盟国中日本ただ一国である。
この権利を一度持てば世界中で戦争を始めなければならないと考えている国は存在しない。同時にこの自衛権をわざわざ制約している国も存在しない。
反復になるが、ひとたび権利を得たらその権利の行使の範囲を自ら制御できないと考えて権利を放棄しようというのは、自らの民主主義国としての能力、資格を否定している国、すなわち非民主主義国ということにほかならない。
権利を放棄してしまえば、将来、権利の行使が必要となったときでも行使できないのだ。(何と自明のことを繰り返さなければならないのか。)なぜそれを恐ろしいことと考えないのか不思議だ。
さらに極めて不可解なのは、これを言う人たちは、自分の、あるいは自国の民主的意思決定能力とその善意を全面否定する一方で、他国の良識と善意を疑わないという矛盾である。
矛盾というのは不適切であろう。失礼ながら無定見、蒙昧と呼ぶべきかもしれない。
一体、どういう見識に基づいて、一貫して平和主義を体現してきた自国の良識を信用しないで、猛烈な勢いで軍拡を実行し、周辺国の主権を脅かし、人権を抑圧してきた他国の軍事的抑制を信頼できるのだろうか。
民主主義制度を採用している自国の政策を制御できないと心配している人が、どうして非民主的、非自由主義的な他国政府の善意に身を委ねようとするのだろうか。
そしてこの人たちは、同時に、軍事的抑止力という概念を決して認めない人たちである。軍事力を持つと戦争が起こる。軍事力を持たなければ、あるいは使わないと宣言すれば戦争が防げると主張してはばからない。
しかも、お隣さんは急速な軍備拡張と軍事的示威行動を行っているその最中にである。
本当にそう信じているなら、自宅の家には一切鍵をかけず、現金をテーブルの上において過ごせばよい。強盗が入っても警察に通報しないと玄関に張り紙を出すべきである。そのとき、強盗が入る可能性は減るであろうか、増えるであろうか。
権利と義務を混同する、自分たちの選んだ自国政府は信用しない、独裁的な他国の危険な行動は見ようとしない、むしろその政府の善意を信用する。その上で、自国政府は民主的でないと叫ぶ。
この人たちは、一体どういう民主主義を自国に根付かせようとしているのだろうか。民主主義国であろうという意思を持っているのだろうか。
防衛政策で、まともな議論をしようというなら、次のような議論をすべきだと思う。
安全保障上の現在の、または潜在的な脅威の判定
脅威に対する万全な防衛措置の模索(軍事的措置に限定しない)
制約条件の認識と出来る限りの除去の模索(出来る限り制約しようというのは愚か)
他国との同盟、非同盟の最適化や、外交政策と軍事政策の最適ミックスも勿論上の議論に含まれる。
アメリカなど他国との同盟を否定し、自衛権を最小限にとどめると言う人たちは、一体どうしたら日本の主権と安全が守れると考えているのか、卓見を伺いたい。
そもそも民主主義を信じているのだろうか。
これを見るにつけ、日本人の民主主義原理に対する理解の未熟に今更思い至る。
民主主義のさまざまな問題についての議論はひとまず留保しよう。私は、その欠点を認めながら、民主主義政体が現実に採りうる最善の政治体制だと考える。
民主主義政治体制をとる我が日本において、主権は国民に有り、国策決定の資格と責任は国民にある。国民は議院内閣制を通して、間接的に意思決定を行い、その責任を負う。この原理を否定する者は、いかに言い逃れをしようと民主主義者ではない。
民主主義的意思決定の結果、国民と国家は、その決定事項にかかわる権利または義務(あるいはその両方)を持つことになる。
ある特定の義務が生じれば、国民や国家は選択の余地無くその義務を履行しなければならない。一方、ある権利が生じれば、国民や国家はその権利を行使するか否か、選択を許される。
権利行使の是非は、しかるべき法的な手続きを経て決定される。
その決定の基準になるものは、国民や国家の意思と能力とその時の情勢判断などである。言うまでもなく、行使を否決すれば行使する必要は無い。
行使の具体的行動内容についての賛否は別にして、行使の是非の判断能力が国会または内閣にないという前提に立つと、民主主義自体が成り立たない。民主主義の否定である。
「集団的自衛権という権利を認めてしまうと、世界のどこでもアメリカの戦争に参加しなければならない義務が生じる」という議論は、権利と義務を混同する稚拙な議論である。この論者は、民主主義を論じる資格が無い。
「日本の国益に反することでも、アメリカの要求には反対できない」という人も、日本の民主主義の有効性を否定している。もし本当にそうなら、なぜあなたは今反対の声を上げているのか。
集団的自衛権は、国際法上、個別的自衛権と対になって自然権として万国に認められている。国連憲章はこれを明文化している(第51条)。この行使を自ら封じ込めていたのは国連加盟国中日本ただ一国である。
この権利を一度持てば世界中で戦争を始めなければならないと考えている国は存在しない。同時にこの自衛権をわざわざ制約している国も存在しない。
反復になるが、ひとたび権利を得たらその権利の行使の範囲を自ら制御できないと考えて権利を放棄しようというのは、自らの民主主義国としての能力、資格を否定している国、すなわち非民主主義国ということにほかならない。
権利を放棄してしまえば、将来、権利の行使が必要となったときでも行使できないのだ。(何と自明のことを繰り返さなければならないのか。)なぜそれを恐ろしいことと考えないのか不思議だ。
さらに極めて不可解なのは、これを言う人たちは、自分の、あるいは自国の民主的意思決定能力とその善意を全面否定する一方で、他国の良識と善意を疑わないという矛盾である。
矛盾というのは不適切であろう。失礼ながら無定見、蒙昧と呼ぶべきかもしれない。
一体、どういう見識に基づいて、一貫して平和主義を体現してきた自国の良識を信用しないで、猛烈な勢いで軍拡を実行し、周辺国の主権を脅かし、人権を抑圧してきた他国の軍事的抑制を信頼できるのだろうか。
民主主義制度を採用している自国の政策を制御できないと心配している人が、どうして非民主的、非自由主義的な他国政府の善意に身を委ねようとするのだろうか。
そしてこの人たちは、同時に、軍事的抑止力という概念を決して認めない人たちである。軍事力を持つと戦争が起こる。軍事力を持たなければ、あるいは使わないと宣言すれば戦争が防げると主張してはばからない。
しかも、お隣さんは急速な軍備拡張と軍事的示威行動を行っているその最中にである。
本当にそう信じているなら、自宅の家には一切鍵をかけず、現金をテーブルの上において過ごせばよい。強盗が入っても警察に通報しないと玄関に張り紙を出すべきである。そのとき、強盗が入る可能性は減るであろうか、増えるであろうか。
権利と義務を混同する、自分たちの選んだ自国政府は信用しない、独裁的な他国の危険な行動は見ようとしない、むしろその政府の善意を信用する。その上で、自国政府は民主的でないと叫ぶ。
この人たちは、一体どういう民主主義を自国に根付かせようとしているのだろうか。民主主義国であろうという意思を持っているのだろうか。
防衛政策で、まともな議論をしようというなら、次のような議論をすべきだと思う。
安全保障上の現在の、または潜在的な脅威の判定
脅威に対する万全な防衛措置の模索(軍事的措置に限定しない)
制約条件の認識と出来る限りの除去の模索(出来る限り制約しようというのは愚か)
他国との同盟、非同盟の最適化や、外交政策と軍事政策の最適ミックスも勿論上の議論に含まれる。
アメリカなど他国との同盟を否定し、自衛権を最小限にとどめると言う人たちは、一体どうしたら日本の主権と安全が守れると考えているのか、卓見を伺いたい。
そもそも民主主義を信じているのだろうか。
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