2019年3月5日火曜日

米朝首脳会談再論

このBlogに投稿するよりもFacebookに投稿する方が技術的にはるかに簡単だ。
それでつい、先ずはFacebookに投稿するのが習慣になってしまった。
いったんFacebookに書いてしまうと、Blogに投稿することはさらに億劫になる。
さて、先日の二回目の米朝首脳会談の結果について。
大手メディアの最初の反応は、例によって「トランプの大失敗」を強調した。
しかし、日を追うごとに少しづつ論調が変遷して、今では合意失敗によって苦境に陥ったのはキムジョンウンの方だとする見方が大勢だ。その場合でもなお「トランプは北朝鮮の要求に妥協したかったのをポンペイオやボルトンが押しとどめた」などと飽くまでトランプの主体性を否定する論者が多いのには呆れる。
私は、トランプ大統領が合意を拒否して交渉の席を立ったのを知って、それはトランプ個人の衝動的な行動でもボルトンらの強い進言に嫌々応じたのでもなく、トランプを含むチーム全体の計画的なものだった可能性が高いと考えた。
それは前回の首脳会談後の共同声明の内容を冷静に分析すれば自然に解ることだ。
共同声明で明らかになったのは、要するに、北朝鮮はアメリカからの非核化の要求に応じない限り制裁を受け続けなければならないということだった。
今回の「決裂」は、そのことをキムジョンウンに思い知らせるために最も効果的なやり方だったと思う。だとすれば、前回と今回を合わせて、実に巧妙な交渉過程の組み立てだ。
ここに第一回米朝首脳会談の直後に私が書いた二つのFacebook記事を転載する。
20180617付Facebook
トランプは名を捨てて実を取った
今回の米朝共同声明について、メディアでの大方の評価は、「トランプは実を捨てて名を取った」だ。
私は反対だ。
トランプがノーベル平和賞を欲しがっているのは確かだろう。オバマもそうだった。
しかし、そんなことは世界平和の実現と何の関係もない。
メディアの論拠は、「CVIDの約束無しに体制保証を約束したから」だ。
北朝鮮現政権の体制保証などしていないことは前回の投稿で検証した。
一方、CVID(完全かつ検証可能かつ不可逆的な非核化)の文字がそのまま盛り込まれなかったことはその通りだ。
そのかわり、次の文言が明記された。
「Chairman Kim Jong Un reaffirmed his firm and unwavering commitment to complete denuclearization of the Korean Peninsula.」
すなわち、金正恩は「朝鮮半島の完全な非核化への確固とした揺るぎないコミットメント」を約束させられた。
この文言上(名)の違いが、実際上(実)どのような違いを生むのかが問題の核心だ。
そもそもこの首脳会談と共同声明にはどんな意味が込められていたのか。
過去何度も北朝鮮は約束を破った。もう約束だけでは信用できない。行動を確認するまで制裁/圧力をやめない。というのが出発点だった。
そこへ、今年一月以降金正恩が(その実態は曖昧ながらも)非核化をちらつかせ南北融和を喧伝して対話を強く迫った。
トランプは北朝鮮の言う「非核化」を手前勝手に解釈して対話応諾の電撃決断をした。
ちなみに、この手前勝手解釈について、メディアの大勢はトランプの無知によるものだと断じたが、一部の識者は北朝鮮の発言を巧妙に逆手に取った可能性を指摘した。
北朝鮮がアメリカの軍事攻撃を恐れ経済制裁に悩まされていたことはほぼ異論のないところだ。
共同声明でアメリカが得たものは、北朝鮮の非核化の約束だ。取り漏れたのは、「検証可能」の文言だ。制裁/圧力の緩和は触れられていない。
北朝鮮が得たものは、「検証可能」の文言を書かせなかったことだけだ。
更に、大メディアがことごとく無視していて私が注目しているのは、箇条四項のうちの第一項「The United States and the DPRK commit to establish new U.S.–DPRK relations in accordance with the desire of the peoples of the two countries for peace and prosperity.」だ。
この「in accordance with」以下の限定修飾句は、さりげなく添えられているが、金正恩の今後の行動を強く牽制することになるだろう。
すなわち、今後の両国の関係は、米国民のみならず北朝鮮国民の平和と繁栄への希求に沿ったものでなければならないと明記されたのだ。
というわけで、共同声明後アメリカは、経済制裁を続けつつ
1.北朝鮮が核ミサイル開発の再開のみならず非核化のサボタージュをしているとのなんらかの兆候があればいつでも軍事圧力の強化ないし軍事攻撃を実行できる。
2.アメリカの好きなときに、金政権が北朝鮮国民の平和と繁栄の希求に反した行動を取っていると主張して軍事圧力の強化ないし軍事攻撃を実行できる。
ということは、金正恩は今後完全査察を含む非核化に向けての具体的行動を取らざるを得ないだろう。
さもなければ、経済制裁を受け続けつつ、アメリカの軍事攻撃(斬首作戦、クーデター誘導を含む)の悪夢に怯え続けなければならない。
というわけで、私は、トランプが実を取り金正恩が名を取ったのだと考える。
20180613付Facebook
「体制保証」は誤訳かフェイクか
私も昨日の米朝首脳会談には拍子抜けした。
非核化の行程と担保について、もう少し具体的なことが発表されることを期待していたからだ。
しかし、共同声明をよく読んでみるとメディアの大方の論評ほどに悲観したものでもないことに気づく。
ここでは取りあえず、批判的論調の最大の根拠となっていると思われる「北朝鮮の体制保証」に絞って検証してみたい。
トランプは本当に金正恩体制の継続を保証してしまったのだろうか。
私が日経新聞を読み複数の地上波テレビニュースショーを見た限り、一部の識者の地味な論評を例外として、概ね、「してしまった」かのように報道されている。
この認識を前提に「他国の政権、それも独裁政権の存続を保証するなどというとんでもないことを言ってしまうトランプ」を声高に非難するコメンテーターまで存在する。
例えば、日経の13日朝刊の一面には、「体制保証を約束 共同声明」との見出しが踊り、その脇に「共同声明のポイント」として四項目のうちの二項目に「米は北朝鮮の体制保証、北朝鮮は完全非核化を約束」と大書きされている。
これは、正確な報道であろうか。本当に米国は北朝鮮の現体制の保証をしたのだろうか。
さあ、共同声明の原文を読んでみよう。(ホワイトハウスのサイトからダウンロードした原文全文を末尾に引用するので参照願いたい。)
まず原文には「体制保証」にあたる語句は存在しない!
和訳「体制」の原語と思われる英語は2ヶ所、和訳「保証」の原語と思われる英語は1ヶ所に発見できるが、この二つの英単語は、互いに異なる文脈のなかに使われている。
具体的に見てみよう。
まず「体制」にあたる原語「regime」が現れる原文は次の2文のみ。
「President Trump and Chairman Kim Jong Un conducted a comprehensive, in-depth, and sincere exchange of opinions on the issues related to the establishment of new U.S.–DPRK relations and the building of a lasting and robust peace regime on the Korean Peninsula.」
「2.The United States and the DPRK will join their efforts to build a lasting and stable peace regime on the Korean Peninsula.」
二つ目は一つ目の繰り返しであることは明らかである。
「to build a lasting and stable peace regime on the Korean Peninsula.」
難しい英語ではない。正確に訳せば、「朝鮮半島に永続的で安定的な平和的政治体制を築く」となる。
どう捻っても「北朝鮮現体制の保証」と訳すのには無理がある。それどころか、現体制とは異なる新しい平和的政治体制を新たに構築すると読むほうが余程自然だろう。
次に「保証」にあたる原語「guarantee」が現れるのは次の1文のみ。
「President Trump committed to provide security guarantees to the DPRK, and Chairman Kim Jong Un reaffirmed his firm and unwavering commitment to complete denuclearization of the Korean Peninsula.
」
つまり「北朝鮮の安全を保証する」と言っているに過ぎない。
同文の後半と合わせて読めば、北朝鮮が完全な非核化を約束する見返りに、アメリカは北朝鮮を軍事的に侵攻することはないという意味と解される。
さて、大メディアの誤報は、単なる読解力不足かそれともトランプ憎しの印象操作か。
https://www.whitehouse.gov/briefings-statements/joint-statement-president-donald-j-trump-united-states-america-chairman-kim-jong-un-democratic-peoples-republic-korea-singapore-summit/?utm_source=link&utm_medium=header
President Donald J. Trump of the United States of America and Chairman Kim Jong Un of the State Affairs Commission of the Democratic People’s Republic of Korea (DPRK) held a first, historic summit in Singapore on June 12, 2018.
President Trump and Chairman Kim Jong Un conducted a comprehensive, in-depth, and sincere exchange of opinions on the issues related to the establishment of new U.S.–DPRK relations and the building of a lasting and robust peace regime on the Korean Peninsula. President Trump committed to provide security guarantees to the DPRK, and Chairman Kim Jong Un reaffirmed his firm and unwavering commitment to complete denuclearization of the Korean Peninsula.
Convinced that the establishment of new U.S.–DPRK relations will contribute to the peace and prosperity of the Korean Peninsula and of the world, and recognizing that mutual confidence building can promote the denuclearization of the Korean Peninsula, President Trump and Chairman Kim Jong Un state the following:
1.The United States and the DPRK commit to establish new U.S.–DPRK relations in accordance with the desire of the peoples of the two countries for peace and prosperity.
2.The United States and the DPRK will join their efforts to build a lasting and stable peace regime on the Korean Peninsula.
3.Reaffirming the April 27, 2018 Panmunjom Declaration, the DPRK commits to work toward complete denuclearization of the Korean Peninsula.
4.The United States and the DPRK commit to recovering POW/MIA remains, including the immediate repatriation of those already identified.
Having acknowledged that the U.S.–DPRK summit—the first in history—was an epochal event of great significance in overcoming decades of tensions and hostilities between the two countries and for the opening up of a new future, President Trump and Chairman Kim Jong Un commit to implement the stipulations in this joint statement fully and expeditiously. The United States and the DPRK commit to hold follow-on negotiations, led by the U.S. Secretary of State, Mike Pompeo, and a relevant high-level DPRK official, at the earliest possible date, to implement the outcomes of the U.S.–DPRK summit.
President Donald J. Trump of the United States of America and Chairman Kim Jong Un of the State Affairs Commission of the Democratic People’s Republic of Korea have committed to cooperate for the development of new U.S.–DPRK relations and for the promotion of peace, prosperity, and security of the Korean Peninsula and of the world.
DONALD J. TRUMP
President of the United States of America
KIM JONG UN
Chairman of the State Affairs Commission of the Democratic People’s Republic of Korea
June 12, 2018
Sentosa Island
Singapore

2017年11月26日日曜日

日本株のアクティブ運用は特別か

記録のため、ちょうど一年前のFacebookへの投稿をここに転載します。

以下引用
Facebook 2016年11月26日

ある著名な「イケメン記者」から質問を受けたので、久しぶりに投資のことを書いてみます。

アクティブ対パッシブの論点において日本株は特別だという主張は、今まで幾度となく提示されてきました。

この「不思議」の実証的解明は、ぜひ専門家の研究に期待したいところですが、ここでシェアする論文に関連して、私のつたない知見から二三ご紹介したいと思います。

まず、市場の効率性が低いとアクティブが勝ちやすいという説は、理論的に怪しいということ。

市場の効率性が低いと、アクティブ運用の成績の分布(ベルカーブ)はなだらかになりますが、その中心が右(ないし左)に移動するわけではありません。


そもそも、市場効率性の強弱にかかわらず、パッシブ運用成績はいつでも平均にあるわけで、アクティブ運用者の競争相手は他のアクティブ運用者です。アクティブ運用者には上手いやつと下手なやつがいるとして、下手なやつの成績は必ず市場平均に負けるわけではなく、その周辺に偏りなく分布するはずです。これはコイン投げと同じです。とすると、結局勝負は上手い運用者どうしで争われることになる。そしてその平均が市場平均になるはずです。

ちなみに、以前この考えをバンガードの専門家にぶつけたことがありますが、賛同を得ています。

さて、それでもなお情報の非対称性が成績を分けるとしたら、すなわちごく少数の特定プロ投資家にだけアクセス可能な有効情報があるのだとしたら証取法違反の疑いが濃厚です。しかも恒常的にあるのだとしたら、日本の株式市場の構造的な違法性を疑わなければなりません。私は、無いと思います。


個々のインデックスの適正性については、専門家の研究に任せます。


もう一つの論点は、サバイバーズバイアスの問題です。周知のとおり、日本の投信市場は、商品(個々の投信ファンド)のライフサイクルが極端に短いという問題を抱えています。とすれば、サバイバーズバイアスが強く働くことが当然に予想されます。これも専門家の検証を期待します。

ついでに、10年間好い成績のファンドは存在しますが、それが今後の10年間も好い成績を上げるかどうかは全く予想できません。これは、いくつもの研究が実証済みです。

好成績の由来はほとんどがマグレだと思いますが、超能力も否定することが出来ません。冗談ではありません。私は様々な超能力の存在を信じています。しかし、残念なことに、あるファンドの運用者が超能力者であるのかどうかをあらかじめ判定する客観的方法は存在しません。あったら私は今頃億万長者で、その方法は絶対誰にも教えません。

最後に、一緒に仕事したこともあるバートンマルキールの次の言葉は印象的です。「アクティブが恒常的にパッシブを上回ることが出来ないと投資家に知らせることは、6歳の子供に本当はサンタクロースはいないよと知らせることに似ている。」


以上、参考になれば望外の幸せです。

2017年9月3日日曜日

難病の国

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

北朝鮮による日本攻撃のシナリオがいよいよ現実味を帯びてきている。

この間中国は領海侵犯および領空侵犯まがいの示威行為を急増させている。

この期に及んでもなお日本の政治は、冒頭の「決意」を変更する目途さえ立てられないでいる。

それを阻んでいるのは、何が何でも阿部下ろしを狙う大メディアと政治勢力、その宣伝に翻弄される「世論」である。

私はもとより阿部総理のすべての言動、政策を支持するものではない。例えば原発政策関連。

安倍総理のすべての言動、政策、人格を否定して止まない人々に強く反対するものである。

こと安全保障政策の大筋において、安倍総理を支持せざるを得ない。

大メディアと一部政治勢力がなぜこれほどまでに阿部下ろしに躍起となるのか。言うまでもなく改憲に最も積極的な政治家だからだ。

数か月前の第九条第三項付加論には驚かされ、反対もしたが、その後の朝鮮情勢の急変、今日ただ今日本がさらされている北朝鮮の軍事的脅威に鑑みると、阿部の異様とも見えた妥協案提言の背後にあったであろう並々ならぬ焦燥感に、いまや同情を禁じ得ない。

いや、総理に同情している場合ではない。私たち日本国民が、その子や孫も含めて世界から同情されることになり兼ねない状況に立ち至っているのだ。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

憲法改正に断固反対する人々の論拠を突き詰めれば、日本を取り巻く諸外国の公正と信義は信用するが、日本政府の平和追及の意図は絶対に信用しないというものだ。

ひたすら平和を願いそれを表明すれば、どの国も日本をいじめることはない、平和を壊すとすればそれは軍隊(法制度も備えた)を持った日本だけだ、という恐るべきドグマ。

周りの国すべてが戦争をすることが出来る国であることを知りながら、日本だけは戦争ができる国にしてはいけない、という異常な信念。

占領時代のアメリカ政府のプロパガンダと、今に至るまで連綿と生き続ける左翼の反日プロパガンダが同調、相乗して日本人の深層心理に植え付けた病根だ、と言って間違いではなかろう。

その病根のなんと根強いことか。

「戦後レジーム」を壊すことのなんと難しいことか。

私はほんの半年ほど前まで、尖閣を取られて初めて日本は改憲を本気で考えることになるのかも知れないと心配していた。北朝鮮のミサイル・核開発がこんなにも速く進んでいると知らなかったからだ。

今では、改憲のきっかけは北朝鮮の攻撃になるのかも知れないと恐れている。

後者のシナリオの方が前者のそれよりも、直接的な被害ははるかに大きいと思われるが、どちらにしても遅すぎることに変わりはない。

あるいは、後者が起これば、改憲の実現を待たずして前者も起こるかも知れない。

それらが起こってなお一層改憲が困難となる可能性もある。つまり弱小国として列強へ隷従する道である。

これほどの窮地に日本を追い詰めた何者かを私たちは断固打ち破らなければならない。

厄介なことに、その敵の少なからざる部分が実は私たち自身の心の奥底に巣くっている。前述の病根である。

政策論としては、むしろ単純である。

短期的には日米同盟を最大限に活用しつつ北朝鮮との交渉に臨むほかない。

長期的には自立的防衛力を強化しなければならない。

より具体的には、一日も早い改憲と防衛費の倍増である。

その後は、自立化に向けた戦略的な日米同盟の修正と必要な防衛関連法整備である。

核武装オプションの検討が含まれることは当然である。

これらが成って初めて外交に実効性が伴うこととなろう。外交だけの外交など、誰が相手にするものか。

この単純な政策プロセスが一向に進まない根本原因が私たちの心の難病である。

ショック療法以外の処方が切実に望まれる。

2017年4月20日木曜日

半島有事の今後

ここへ来て「アメリカは攻撃するつもりがなかった」との報道と解説が相次いでいる。「主に日韓に甚大な被害がでるリスクが高いから」だという。

私が14日の夜にこのブログに書いたことだ。

「しかし、アメリカは本気度を北朝鮮と中国に思い知らせたのだ」というのが大方の解説だ。ここが私の考えと異なる。

私のような素人が公開情報をもとに推定し得る事情が、北朝鮮であれ中国であれ戦略ないし情報の専門機関の分析で解らない訳がない。もちろん日本当局も知っている。

関係諸国が皆分かっていてなお真面目に狂言を演じ会うのは、わずかな不確実性をめぐっての政治的化かし合い、とぼけ合いでもあり、それぞれの自国民および他国に向けての情報戦でもあるのだろう。

トランプ政府が中国や北朝鮮が怖じけづいたと本気で信じているとしたら、それこそ危ない。

やはり、アメリカと中国が朝鮮半島の将来とその他イシューを踏まえてなんらかの大合意を結んだか結ぼうとして、政治的即興劇を演じ合っているのだろう。

大合意とはもちろん(取り敢えずは)アジアにおける米中間の覇権の分担だ。

そこで米中が模索する朝鮮半島の将来像は、共通利害である非核化を大前提として、両勢力の実質的境界線を今までどおり38度線とするのか対馬の北に直すのかのどちらかだろう。

アメリカが、そして日本までも、あれだけ「中国の役割」が鍵だなどと宣伝しているところをみれば、後者が予定されていると見たほうがよさそうだ。もし前者だとしたら、中国はタダ働きをしたことになる。それはないだろう。

もし中国が手を尽くしても北から核を取り上げることができなかったら、アメリカが半島を取りにかかるのか、38度線で手を打つのか。
それはひとえにアメリカと北の対決の結果次第だろう。

しかし、結果以前にプロセスがまず恐ろしい。

2017年4月15日土曜日

トランプは北朝鮮を攻撃しない

トランプは「北朝鮮が核実験をやるとの確証に至れば攻撃するぞ。」と言っている。

ただし条件をつけている。第一に中国が適切な行動を取らないこと。第二に韓国が同意すること。

そして今トランプは、「中国はよく動いている。習は素晴らしい。」などと言っている。韓国が同意しないことはまず確実だ。

つまり、北の核実験があろうがなかろうが、ぎりぎりのところでアメリカは攻撃をふみとどまる、というシナリオができているのではなかろうか。

そのうえで、その後、米中の合意と協力に基づいて、一定の時間をかけて金正恩を押さえ込むつもりなのだろう。

具体的には、中国から北への石油輸出の停止。引き換えにアメリカは、中国主導(表面上は「韓国主導」でもよい)の半島統一を許すかもしれない。

金正恩は米中共同のあらゆる策謀の末、結局何らかの形で排除されるだろう。

中国主導の半島の統一とは、つまり半島から米軍が撤収するということ。それは38度線が対馬の北まで下りてくることを意味する。日本はますますアメリカとの軍事同盟を強め、同時に憲法を改正して防衛力も倍増しなければならない。長期的には独自防衛の道を模索する。場合によっては核武装を検討するかもしれないが、それはおそらく米中からの、少なくとも中国からの徹底的な妨害に会うだろう。

逆にアメリカが北の核実験に対抗して攻撃をした場合、韓国、日本に少なからぬ被害が出る可能性が高い。そうなれば、その後アメリカは同盟国からの信頼を決定的に失い、覇権の基盤をゆるがしかねない。

それはやはり、中国にとっては今より有利な状況を生む。ただし長期的には日本の軍備増強、場合によっては核武装というリスクが高まるかもしれない。

もし北が合理的な判断を捨てて先制攻撃に出れば、すなわちソウルや東京または在日米軍を攻撃すれば、アメリカは同盟国に気兼ねなく、むしろ同盟国防衛の大義を得て、思う存分北を攻撃できる。

その場合、韓国も日本もアメリカを責めるわけには行かず、感謝を表明しなければならない。中国は引き続きアメリカの覇権をみとめなければならないだろう。

以上のように考えると、アメリカの軍事的覇権の維持にとって最善のシナリオは、最後のシナリオ、金正恩を徹底的に追い詰めて暴発させることかもしれない。かつて日本を追い詰めたように。

しかし、そこで話はトランプ政権誕生時の振り出しに戻る。そもそもアメリカは今後も一国覇権を続けられるのだろうか。おそらく答えは「否」だろう。だとすると、やはり中国か日本にアジア覇権の一部を委譲するほかない。

いずれにせよ、日本は憲法改正と軍備増強をせざるを得ないだろう。

さもなければ中国の横暴に身を任せるしかない。

2017年4月8日土曜日

シリア政府軍の化学兵器使用 その動機は?

シリア政府軍が空爆で化学兵器を使ったそうだ。
米と西欧の主要国とその主要メディアとNGOがそう主張している。
シリアは否定している。ロシアは十分な証拠がないと主張している。

このタイミングでシリア政府が化学兵器を使用すると彼らにどんなメリットがあるのだろうか。

まず事実を見よう。
この事件の前、戦況はロシアの支援を得た政府軍側に有利で、政府軍の勝利が目前と伝えられていた。
トランプはシリア政府との融和を目指すと公言していた。ロシアとの協力も目指すとしていた。
この事件のあと、トランプはアサドに対する考えを一変させ政府軍への軍事攻撃に踏み切った。ロシアとの対決姿勢を強めた。
この政府軍の化学兵器を伴う空爆による死者は70人ほどだった。
この事件は、北朝鮮の核兵器開発に対してトランプ政権が軍事的対応を示唆した直後、トランプ習近平会談直前に起きた。

さて、アサド政府は「化学兵器を使う」ことで何を得ようとしたのか。また、実際にどんなメリットを得たのか。
まったく見当たらない。
逆に損ばかりだ。

70人余りの人を殺すために国際法で禁止されている大量破壊兵器たる化学兵器使用を強行する必要があったとは到底考えられない。

もし本当にシリア政府の仕業だとしたら、アサドは余程の馬鹿者だ。

では、誰が得したのか。
アサド政府の優勢を覆したい者。
トランプとアサドの仲を裂きたい者。
トランプとロシアの対立を煽りたい者。
シリア紛争を含む中東紛争にアメリカを引き留めたい者。

アメリカはオバマ大統領のときから、世界の警察官として世界中で軍事行動を展開することはもはやできないと公言するようになった。具体的には二地域以上で大規模な軍事展開は出来ないと言い出した。
同時にアジアシフト戦略を言い出した。
つまり、中東への介入の縮小を目指していた。

オバマはそれを公言して実行しようともがいていた。トランプはその戦略を基本的には継承してアメリカファーストを唱え、より鮮やかに(オバマのような優柔不断を晒さずに)それを実現しようと考えた。その戦略の中心がロシアとの融和だ。

大方のメディアは、今回のアメリカの対シリア政府ミサイル攻撃は、トランプの軍事的強硬姿勢を示したことで、中国、北朝鮮に対する強い牽制を果たしたなどと論評している。

これは極めて疑わしい。

アメリカをシリア紛争、中東紛争の泥沼に引きずり込むことは、アジアの覇権を狙う中国の戦略に有利に働く。朝鮮半島の「解決」における中国の主導権を強化する。アメリカはシリア方面に軍事的資源を振り向ける必要から北朝鮮への対応を控えざるを得ないかも知れない。つまり、朝鮮半島統一における中国のより強い関与を認めざるを得ないかも知れない。同時に、アメリカとロシアの接近による中国封じ込めが不可能になる。

シリア政府以外の某国または某勢力の工作員が、空爆被害のどさくさに紛れて一定量のサリンをまいて少数の化学兵器被害者を出すことなど、実行上難しいことではなかろう。

動機の面から考えると、下手人はアサドではない。中国か北朝鮮か軍産複合体かアメリカ内外の反トランプ勢力(グローバリズム勢力)かそれら複数の合作か。

この事件は、朝鮮情勢、東シナ海、南シナ海情勢への影響を考えれば、日本にとっては有利どころか不利に働くことだろう。


2017年2月28日火曜日

愛と成金とオードリー

オードリーヘップバーンが好きだ。

最近BSで『麗しのサブリナ』と『ティファニーで朝食を』を観た。アメリカが自信に満ちていた時代の映画だ。夢と自由の国の物語。

年のせいか世相のせいか、オードリーの魅力そっちのけでアメリカ的価値観にばかり関心が向いた。

二つの物語のテーマはおよそ同一だ。成金に憧れつつ結局は純粋無垢な愛を選ぶということに尽きる。

ハリウッド十八番のテーマだ。

アメリカ国民は、さらにはアメリカに憧れた私たち世界中の大衆が、このハリウッドの美しい物語から大いなる娯楽を享受してきたわけだが・・・はたしてアメリカは、そして私たちは、本当に拝金主義を去って清き愛に即いて来ただろうか。

愚問だろう。

実際は逆で、いつも純粋無垢な愛に憧れながら、結局拝金主義にどっぷり浸かってここまで来たのだ。

さらに穿てば、私たちはハリウッド映画を見ながら、顕在意識では愛を選ぶ美しい物語に賛同する自分を祝福しつつ、あるいはそれを免罪符として、潜在意識では映画のプロットの主要部分を占める成金の価値観に対する共感をこそ増殖させてきたのかも知れない。

何もかも金で動かすことのできる大富豪やら、ニューヨークの華麗な日常やらへの憧れ。それがアメリカ映画を見る本当の動機だったのではないだろうか。

アメリカこそ、いやハリウッドこそ世界の愛と拝金にまつわる欺瞞を象徴する存在である。

その象徴中の象徴があの絢爛豪華なアカデミー賞授賞式だろう。今年の授賞式は昨日執り行われた。

究極の成金趣味とスノビズムの祭典。そこでの愛と人道の謳歌。

テレビで式を垣間見る度に感じて来たこの矛盾を今回ほど強く感じたことは無い。

オードリーの実人生を知ると、それがこの欺瞞と矛盾に投げかける強烈な皮肉のようにも思えてくる。

アメリカ全盛時代の物語、つまり本来のアメリカの価値観が、今のアメリカの荒廃を生み出したのだ。

トランプ大統領に牙を剥くグローバリズム・リベラル勢力もトランプ大統領自身も、この同じ価値観から生れ出た異形の双子だ。

しかし、それはアメリカの話で終わらない。私たち日本人もまたその他の国の人々も、少なくとも20世紀の半ば以降、アメリカの価値観、矛盾に満ちた価値観を追いかけてきたのだから。

毎日毎日日本のテレビで繰り返される「セレブ」なるものに対する賛歌を見よ。

この欺瞞からすぐに抜け出すことはできないだろう。欺瞞を自覚することがささやかな歯止になることは確かだろう。自覚しなければさらに住みにくい世界に向かって行かざるを得ないだろう。

2016年12月21日水曜日

俳句とクロスワードパズルとレヴィストロース

近ごろ俳句の面白さに目覚めて夢中である。
俳句は、心の旅であり言葉の冒険である。
多くの隠居者の手慰みでもあるが、その意味では西洋のクロスワードパズルに似る。
しかし、クロスワードパズルが単に語彙知識のゲームであるのに対し、俳句はそれ以上に創造性と想像力の遊びである。
また、前者が専ら出題者の計画と専制に縛られるのに対し、後者は当事者各々の無限の発想に委ねられる。
はるかに優雅で自由な遊戯だと言えよう。
そう考えると、レヴィストロースの日本贔屓にまた頷けるのである。

2016年11月13日日曜日

トランプはどこだ? 二つの箱の中を探せ

あたかもトランプ現象またはトランプショックが分断をもたらしたかのように喧伝されている。

話は逆で、抜き差しならぬ分断が大きくなりすぎたからトランプが出現したのだ。

ヒラリーとトランプ、オバマとトランプが表向きまたは政治的に和解劇を演出しているにも関わらず、一部アメリカ国民が暴動まがいの反トランプデモを行い、それを例によってメディアが煽っている。

ここで良識あるアメリカ国民と日本人を含む世界の人たちに必要なのは、戦うべき相手が誰なのかを冷静に見極めることだろう。

先ず確かめなくてはならない。トランプはどこだ?

トランプは四つの箱のうち二つのどちらかにいる。

ビジネスパーソン向けのセミナーなどで多用される手法を使おう。やや乱暴だが実用的なツールである。

四つの象限による分類だ。

横軸の左側にグローハリズム志向、右側にナショナリズム志向を置く。

縦軸の上側に平和志向、下側に紛争志向を置く。

出来上がった四つの箱を左上から反時計回りに「グ平」箱、「グ争」箱、「ナ争」箱、「ナ平」箱と呼ぼう。

反トランプ派は、トランプがナ争箱にいると言って攻撃していると見ることが出来る。

トランプとその支持者が人種差別、宗教差別、女性蔑視を通してアメリカを引き裂き、それが排外主義となって世界に波及し、世界中に紛争と戦争をまき散らすと考えているようだ。

ここで最も重要なことは、善良な反トランプ派が自分の仲間はすべてグ平箱に住んでいると思い込んでいることだ。

さらに、彼らはナショナリストがすべて好戦的で排他的だと信じこんでいる。つまり、彼らはナ平箱とその住人の存在を認めていないのだ。

すなわち、善良な反トランプ派の人々には、ここで仮定している四象限が見えていない。対立軸が一本しかなくて、グローバリスト=平和主義者 対 ナショナリスト=好戦的排他主義者 の構図になっているのだ。

一般に、人がある対象に強い嫌悪感ないし怒りを感じるとき、特にその感情が反射的に湧きあがるときには、一息置いて冷静にその嫌悪感の源泉を省みた方がいい。

知らず知らずのうちに不合理な偏見に支配されているかも知れないからだ。洗脳されているかもしれない!

さあ、果たしてグローバリストは全て平和主義者なのだろうか。また、ナショナリストはすべて好戦的な差別主義者なのだろうか。

ここから議論を始めないと、真の敵を見誤る。味方を攻撃してしまう。オウンゴールをやらかしてしまう。

最初の論点に戻ろう。人種差別、宗教差別、女性蔑視によって分断された今のアメリカを作ったのは、トランプ支持者やナショナリストたちだっただろうか。

人種差別、宗教差別、ジェンダー差別は、グローバリストの間には存在しないのだろうか。

人種差別、宗教差別、ジェンダー差別は、建国以来アメリカに存在した。その是正が長い紆余曲折の歴史を通じて行われてきたというのが真実だろう。

では今更それが爆発しなければならない原因はどこにあるのだろう。トランプ的人間が出てきたからだというのは説明になっていない。

ジェンダー差別は別件逮捕だからさておくとして、人種差別、宗教差別の圧力の高まりは、一つには国内産業の衰退による白人貧困層と不法移民を含む移民の間の労働機会の奪い合いが原因だろう。もう一つの原因は、中東地域の様々な紛争とそれらに関連するテロの頻発を淵源とするイスラム教徒の移民の増加と彼らに対する偏見の高まりだろう。

この二つの原因を作り出したのは、トランプ的アメリカ、すなわちナショナリストの仕業ではない。

これらの原因を作り出したのは、国内産業を空洞化させたマルチナショナルビッグビジネスであり、石油その他天然資源をコントロールするために関係諸国の政治と紛争に介入し続けるグローバリストたちである。

しかも彼らはその罪の隠ぺいのために、口では世界は一つ、人類はみな平等、人権第一を歌い上げている。

このシステムの中心にいる勢力は、例の四象限で言えば、グ争箱に巣くっている連中だ。彼らこそ本物のグローバリストであり、善良で純真なグ平箱の人々を騙してナショナリストたちへの攻撃にむかわせているのだ。

このグローバリストたちから多額の資金を得て政治を動かしている政治家の代表格は、ヒラリークリントンだ。

このからくりに気が付けば、グ平派の人々は、グローバリズムの罪深さを悟ってナ平箱へと移転して来るはずではないか。

それでもなおナショナリズムという言葉の響きに強い抵抗を持つ人々に問いたい。

自国の文化、伝統、国土を愛しその利益を優先する国民は、悪人なのだろうか。それらの国民同士は、争いをする以外にないのだろうか。

異なる文化、異なる思想、異なる歴史、異なる利害を持つもの同士が、互いに相手を認めあい、尊重し、共存の道を求めて妥協点を探ることこそが、私たちの目指す国際社会なのではないのか。

ならばなぜ、ナショナリズムを憎まなければならないのか。世界を一つにしてあらゆる国境をなくさなければ仲良くなれないというのは、論理の飛躍であり、非現実的な考えだ。

それどころか、この考えこそが問題を深刻化させてきたことを銘記しなければならない。

今こそグローバリズムの内包する矛盾と欺瞞に気付く時だ。

グロバリズムの頂点にいる連中は、いくつもの国に会社を持ち、いくつもの国に預金口座を持ち、いくつもの国に投資し、豪華ヨットや自家用ジェットで世界中を駆け回り、主に英語を話し、世界中の同類たちと高価な酒を酌み交わしながら情報交換をしている連中である。

そして彼らは、いくつもの国に高い壁で囲った屋敷を持ち暮らしている。決して善良無垢な各国国民と生活空間をともにするような輩ではない。、

あなたたちがどんなに崇敬し、憧れ、慕おうと、決してあなたたちを大事にしてくれるような人たちではない。

最後に、あなたたちはどの箱にいるのか。

2016年11月9日水曜日

トランプという希望

トランプが勝った。

すなわちMSM(メインストリームメディア)が負けた。

あれだけ反トランプキャンペーンに躍起になったにもかかわらずやられたのだから、さぞショックだろう。

そしてこの敗北はあのBrexitに続いての敗北だ。

世界全体が音を立てて変化している。

トランプ現象とBrexitいずれも、実は一つの大戦争の二つの戦闘だ。

戦争の対立軸は、グローバリズム対ナショナリズムであり、多国籍資本対国民経済であり、支配層対非支配層であり、富裕層対貧困層であり、特権階級対大衆であり、進歩主義対保守主義である。

前者勢力の代表がウォール街であり軍産複合体であり石油資本である。そして注意すべきは、MSMはそちら側の重要なプレーヤーだということだ。

つまり、MSMはグローバリストの宣伝機関または洗脳機関なのだ。

と言っても、議論が飛躍しすぎて腑に落ちないだろう。

次のように言えば分かりやすいかもしれない。

世界の政治と経済を牛耳っている勢力は、国境を超えて経済活動を展開し、各国の主権と法制度を敵視している連中である。決してアメリカ政府そのものではない。

世界中に紛争を起こし、地域を間接支配し、石油を確保し、金融をコントロールし、もうけた金をタックスヘイブンに蓄える。

カネとモノとヒトを国境を越えて自由に行き来させることが彼らの利益を生む。

必然的に各国の文化的特異性も邪魔になる。

二十世紀の後半から世界中の人が、とりわけ日本人が、彼らのプロパガンダに犯され続けてきた。

アメリカ国民も、日本人とは違った経緯で、強力に洗脳されてきた。

その魔法がいま溶けようとしている。

政治的建前から本音重視への移行である。

オバマ時代は、ポリティカルコレクトネスの頂点だった。建前で現実を処理することはできないから、当然オバマ政治は失敗した。

オバマに「チェンジ」の夢を見たアメリカ国民は、彼のキレイゴトに無残に裏切られて、今度は、彼らの本音を拡声器で叫んでくれる、下品だが頼りになりそうなトランプ親分に賭けてみる気になったのだ。

「地球市民」などは、「非武装中立平和主義」と同様、マヤカシであり、幻想であり、偽善的言説であり、それどころか危険思想でさえあるのだ。国境はすなわち国家主権であり、国家は私たちの生存と安全に不可欠なのだ。

国境の壁は、目に見えるものであろうがなかろうが、必要なのだ。

私も、トランプにささやかな希望を託す一人である。

むっつりス〇〇より陽気なス〇〇の方がましだとか、インテリづらの犯罪者より下品な正直者の方がましだとかという次元の話ではない。

本来の政治の機能を少しでも取り戻して、世界的な支配と被支配の関係を打ち壊す端緒を作ってくれないかという期待だ。

それは、地球規模の欺瞞を闇から引きずり出して、政治を本音に近づけることから始まるのではないかと考えるからだ。

日本国の在り方も、やっとそこから議論が始められるからだ。漸く日本の国体と防衛について、本当のことを話し合える時代が来たのかもしれない。

ただ、恐ろしいのは、グローバル支配勢力からの反撃だ。彼らには膨大なカネとネットワークがある。

とてつもなく周到で狡猾な謀略が張られるだろう。

最も分かりやすく効果的なのは、トランプの暗殺か。極東の独裁者の暗殺よりもずっとありそうな話だ。

げに恐ろしきはグローバリストである。

2016年8月16日火曜日

百田尚樹『カエルの楽園』の意味

あまりに単純素朴で何のヒネリもない寓話だ。結末は読み始めから見えている。

寓話の価値は、単純な例え話を使って分かりにくい真実に気付かせてくれること。

この本の寓意はあまりに当たり前過ぎて、私に何の新しい気付きも与えてくれない。多くの大人の読者に共通の感想だろう。

一方、いわゆる第9条信者にとって、百田尚樹の本など目にするだに汚らわしいだろうから、彼らが読んで何かに気付くことなどあり得ない。

多くの小学生か中学生に読んでもらいたい本だ。

現代日本という特異な言論世界以外では童話としてしか成立しない本だ。

2016年2月18日木曜日

今日の新聞から明日の日本を考える

主要紙を全て購読する偉い先生方とは違って、わが家には日経しか来ない。

その日経も実は妻の愛読紙で、私は普段ざっと目を通す程度だが、今日の紙面には興味を引く見出しが満載で、珍しく真面目に読み込んだ。

「中国、実効支配へ強硬 南シナ海西沙にミサイル配備」
「対話外交手詰まり 修正迫られる米大統領」
以上、一面ではなく三面にあるのがなんとも言えない。

そして国際面に「すれ違う米・ASEAN」。

幕末以来の国難は勿論我国の望んだものではなく、その後日本は次々に降りかかる外敵の脅威を懸命に払い除けながら、知恵を絞り、歯を食いしばり、脂汗を流し、夜も寝られずにやっとの思いで生き延びて独立を守ってきたが、ついにはアメリカの挑発に誘い込まれて無理な戦争を始め、結果、完膚なきまでに叩きのめされた。

戦後は辱められ、封じ込められながら、ひたすらアメリカ様に精一杯の恭順を示しつつ、持ち前の勤勉と我慢強さで、経済においては一等国の地位に帰り咲くことができた。

その後ソ連が崩壊し米ソ冷戦は終わったが、共産中国が初めは静かにやがて喧しく台頭し、最近はついにアメリカと共同して世界を分担統治しようとまで宣い出すに至った。

かたや親方アメリカは、徐々に国力を弱め、財政の限界と内政の不安定もあって、もうかつてのごとき世界の警察官ヅラはとても続けられないとの自覚に傾きつつある。

今日の新聞記事を読み解けば、表向きアメリカは、日本を含むアジアの同盟国に対し頼もしい用心棒役を続けるふりを装いながら、しかし一方で、思い切った手が打てない苦悩をちらつかせて、少しづつ少しづつ同盟国のあきらめと自立を促しているように見える。

この見立てが当たっているなら、今のオバマの対中姿勢は、ついこの間のB52の飛行やその前の駆逐艦の巡航も含め、ただのアリバイ作りと時間稼ぎということになる。

米中間で密約が存在するかどうか私ごとき庶民が知る由もないが、両国が少なくとも暗黙の合意を予定してメクバセを交わしながら芝居を打っている可能性が極めて高い、と私には見える。

偵察衛星は日に何度か南シナ海の上を通っているわけで、どんなに作業を急いでも地対空ミサイル配備の様子は何日も前から観察されていたに違いない。出来ちゃってから騒ぐこと自体、断固阻止の意思が無かったことの何よりの証拠である。そしてそのアメリカの本音は、自動的に中国に理解される。

核保有国同士の米中が全面戦争を避けるのは当たり前で、したたかに着々と覇権を目指す中国と、図らずもジリジリと後退を余儀なくされるアメリカとの間で、アジアにおける疑似冷戦(実は共同管理)が演じられても何の不思議もない。

いや、アメリカが日本を差し置いて中国を共同管理パートナーに選ぶはずがないと信じる日本人は多いだろうが、アメリカにしてみれば、いまだに軍隊禁止の憲法を直さないばかりか、万国に自然権として認められる集団的自衛権をすら限定的にしか行使できないトンデモ国家を、冷厳苛酷な国際政治戦の共同パートナーなどによもや選ぼうはずがない。

日本人には大いに心外だろうが、アメリカにとって、日本に対する友情(そんなものがあればの話だが)など、自国の安全の前では藁一筋の重みもないのは自明だ。いや、多くのアメリカ人は、実は昔から日本よりも中国に対する尊敬ないし憧憬の念のほうが強い。

ついでに言えば、戦後アメリカの対日政策は、口先では最重要同盟国としながら、裏ではいわゆる「二重封じ込め戦略」と「米中共同封じ込め戦略」を相次いで適用してきた。後者は私も最近知った驚くべき事実だ。

国際政治アナリストの伊藤貫によれば、米中の対日共同封じ込め戦略は、1972年2月のニクソン訪中時に正式合意された。National Security Archiveの公開する米政府の外交資料に載っているそうだ。

などと論じると、国内の反日工作勢力や空想的平和主義者たちは、そんな頼りない日米同盟ならばそもそも必要ないではないかなどと嬉々として叫び出すかもしれない。

それは、「十分でないものは必要でない」という非論理的で幼児的な議論だ。一般論としても、自国の安全を同盟だけに頼ることは不十分だが、それは同盟不要を当然に結論づけるわけではない。

日本の現状を見れば、日米同盟なしに中国の軍事脅威に対する安全保証が覚束ないのは明らかである。逆に、日米同盟があれば、100パーセントの保証はなくても、相当の抑止効果は期待できる。

そもそもこの間までの日本のように集団的自衛権の行使を否定している国が軍事同盟を結ぶこと自体意味をなさない。だから、日米同盟を実質的に成り立たせるために先の安保法制は最低限の必要条件であった。

さらに、憲法九条の制約を除いて世間並みの軍事力を持つことができれば、抑止力はさらに向上する。

一方、軍事同盟も否定し、現在の不完全な軍事力(自衛隊)をそのままにしておけば、中国の拡張主義を促進することとなろう。

くどくど確認することも憚られるほどの簡単明瞭な理屈だ。

阿部さんと保守勢力の有志は、憲法改正の早期実現への努力をいよいよ声高に宣言し出したが、先般の安保法制論争時、野党やマスコミ各社、一部学者、「有識者」や、その他有象無象の反対キャンペーンのバカ騒ぎぶりを見ると、改正実現にはまだ相当の時間がかかるだろう。

こんな不吉な予想はしたくないが、尖閣が取られ、さらに沖縄の領有権が脅かされるに及んで漸く国論は憲法改正になびくのではなかろうか。

アメリカは勿論、阿部さんすら腹のうちではそれを想定済なのではなかろうか。逆に、そのくらいの現実的洞察を持っていなければ宰相失格かも知れない。

さて中国の南シナ海ミサイル配備という重大ニュースを押しのけて、きょうの日経一面に取り上げられた面白い記事がある。

「USJ、沖縄進出撤回検討」だ。「採算見込めず」が理由とされるが、果たして本当か。

USJは、昨年秋にコムキャストが買収した。さすがにアメリカのメディア大手だ。間近に迫る沖縄およびその周辺の政治的および軍事的リスクの影響を懸念し始めても不思議はない。記事はそんなことに毛ほども触れていないが。

アメリカは漸次撤退する。中国は漸次拡張する。互いに戦争を望まないとすれば、両者はどこかで勢力の均衡を求め当面の折り合いを付ける。そしてその均衡点も永遠のものではない。このままの日本では、両大国のその枠組みの中で小突きまわされるしかない。例によって何らかの代理戦争が仕掛けられてもおかしくない。場合によっては中国の属国化を余儀なくされるかも知れない。と知るべきである。

幕末期の重大危機の再来である。大袈裟ではない。

されば日本の進むべき道は、まず日米安保の確保。次に九条改正と軍備増強。同時にASEAN、インド、豪州との同盟の確立。ロシアとの関係強化。さらには、英仏型核武装「Minimum Deterrence」を含む自主防衛体制の検討だろう。

大きな攪乱要因は中国共産党政権の瓦解の可能性であるが、これは今のところ見切ることが出来ないし、仮にこれが現実となった場合、日本の安全保障上のリスクがどの程度減るのか増えるのか、今の私には見当が付かない。

2015年8月2日日曜日

日本の議論(3) コント「熱中症対策」

(注意: このコントはフィクションです。某国の国会論戦とはなんの関係もありません。延々続きます。ウンザリしたところで読むのやめてください。最後まで読んでも、何の役にも立ちません。)

ヒノモト中学の職員会議で・・・

生活安全対策担当の教員A: お手元のプリントをご覧下さい。今年生徒に配布する「夏休みの注意事項」に「熱中症予防のため外出時には十分な飲料水を携行すること」という一項を付け加えることを提案いたします。

教員B: どうして飲料水の携行が必要なんですか。

A: いやー、どうしてって、最近熱中症患者発生のニュースが頻繁に報道されていますし・・・

B: そんなことはわかっているんですが、なぜ飲料水が必要なんですかと質問しているんですよ。ちゃんと質問を聞いてくださいよ。

A: えっ、脱水症を予防するために水分を取らなければいけないというのは、医学的にも・・・

B: ちょっと待ってください。脱水症?あなたが提案しているのは熱中症の予防のことではないんですか。

A: いやいや・・・脱水症が熱中症を引き起こすというか、脱水症だから熱中症になるというか・・・確かそうですよね。でしょ??

B: そうですよねって、あなたが提案しているのでしょう。そんなこともわかっていないのに提案しているんですか。

A: ・・・

B: じゃ、お聞きしますが、脱水症にならなくても熱中症になるケースというのは医学的にありえないと、こう、あなたは主張するんですか。

A: はぁ・・・そういうこともあるかもしれませんが・・・

B: そもそも、水だけでいいんですか? 塩分についてなんで書かないんですか。

A: そりゃ、塩分も・・・

B: マグネシウムは?

A: ・・・

B: 答えてくださいよ。熱中症をあなたはなめてるんじゃないんですか。熱中症で死ぬ人もあるんですよ。え!

A: わかってますよ。だから今回注意事項に加えるべきだと・・・

B: じゃー、一体、どれだけの飲料水を持ち歩けば、熱中症にならないんですか。100ミリリットル?500ミリリットル?それとも1000CC?!

A: それはそのときの気温にもよると思いますし、本人の体調や、体格にも・・・

B: いいでしょう。じゃーですよ。例えば体重60キロ、身長170センチの男子の場合はどうですか。

A: そんなー・・・ 気温にもよるでしょうし。

B: 気温にもよる? じゃー湿度は関係ないとでも言うのですか。驚いたなこりゃー! たいした医学的根拠だ!

A: ・・・

B: そんないい加減な知識で、この重大な問題の対策を提案しているわけですか。あきれてものが言えませんね。じゃーね、あなたは、「飲料水」と書いていますが、これは水道水のことを言っているのですか。

A: いや、別に水道水でなくても、井戸水でもいいし、ポカリスエットでもなんでも・・・

B: バカなこと言わないでくださいよ。井戸水って、それは、飲料適格検査をちゃんと通しているんですか。

A: じゃ、井戸水は除外するということに・・・

B: 井戸水撤回するんですか。たった一分前の発言をもう、撤回するんですか。なんていい加減な回答なんですか。言ったことをそうやってころころ変えないでくださいよ。

A: ・・・

B: いいでしょう。私はもともと井戸水の話なんか、話そうとしたんじゃないんです。あなたがそんな無謀な議論を始めるからでしょ。それよりA先生、いま、ぽろっと本音が出ちゃいましたよね。ね!

A: 何のことです??

B: 井戸水のあとですよ、えっ!

A: 井戸水のあとって???

B: ポカリスエットってはっきり言ったでしょ、えっ?! A先生、とぼけるつもりですか。そうは行きませんよ。ほかの先生も聞きましたよね。

A: あぁ、ポカリスエットって言いましたけど。それが何か? 別にアクエリアスでもいいですけど。

B: アクエリアスでもいい? おとぼけがうまいですねー。そりゃー、ポカリでもアクエでもいいでしょうよ。

A: ・・・ どういうことですか???

B: じゃー、言ってもいいんですね。あなた先週の金曜の夜、どこにいました?

A: 先週の金曜??? 何ですかいきなり。

B: とぼけないでくださいよ。いいでしょう、時間の無駄ですから私のほうから言いましょう。私偶然見たんですよ、A先生が、あの晩、帰宅途中、ヨネクニ商店の奥さんとヒソヒソ話し込んでるのを。

A: ヒソヒソ・・・話し込んでる・・・??? ああ、あの日は珍しく早めに学校を出られて、ヨネクニ商店まだやっていたんで、カップラーメンを買ったんですよ。そしたら奥さんが、うちの子がいつもお世話になってますって言うんで・・・

B: あそこの子は、二年のときからA先生のクラスでしたよね。

A: そうですよ。だからお母さんとは何回も話したことがありますし・・・

B: 何回も・・・話したことが? それだけですか。

A: なっ、なんです。それだけかって?

B: うーん・・・顔色が変わりましたね。確かに変わりましたよ。

A: イッタイ、ナニイッテンデスカ!!

B: いやいや、何も言ってませんよ。どうせ、はっきりした証拠はない訳だし。ただのうわさだって言われりゃー、それまでだし。

A:  つまらない言いがかりはやめてください!!

B: ま、そう興奮しないで。でもね、あそこのご主人、二年前に癌でなくなってますよねぇ。

A:  だから何だって言うんですかあー!!!

B: A先生、ヨネクニ商店の前には自動販売機が3台置いてありますよね。ポカリ、アクエも、そのほかにもたくさん飲料水を売ってますよね。

A: イッタイ、なんの話なんですか?!

B: じゃー、はっきり言いましょう。今度の件は、ヨネクニの奥さんに頼まれたんじゃないですか?

A: バカもいい加減にしてください。第一、飲料水なら、ヨネクニじゃなくたって、そこらじゅうのコンビニとか・・・自動販売機だって町中にたくさん・・・

B: そりゃ、ほかでも買うことは可能ですよ。でも、うちの生徒のほとんどにとって、一番便利に利用できるのがヨネクニの自動販売機じゃないんですかね。

A: そんなこと知りませんよ。

B: いったい、うちの生徒が清涼飲料水を買う場合、何パーセントがヨネクニの自動販売機を利用しているのですか。

A: そんなこと・・・

B: この提案について、事前に父兄の意見を聴取しているんですか?

A: ・・・

B: まさか一人も意見聞いていないんですか?

A: そんな必要・・・

B: えーーーー! こんな重要な件で、父兄の意見なんか聞く必要ないなんて言うんですかー? 生徒の健康に対する重大な脅威について、父兄の意見なんてって。いま、あなた、そう言いましたよね。

A: 言ってないって。そんな必要もあったかもって言おうとしたんですよ。

B: そもそも、なんでいきなり「外出時に・・・」なんですか。外出しないことのほうが効果的でしょ。必要の無い限り外出しないようにとなぜまず書かないんですか。これじゃ、外出するのが前提というか、むしろ暑いさなかに外出を促しているも同然じゃないですか。あなたは、生徒をわざわざ生命の危険のある炎天下に誘い出すつもりなんですか?

A: そんなわけないじゃないですか!

B: 校長先生、こんな重大な問題で、しかも、こんなに問題だらけの議題をですよ、今日一日で決めるなんてとんでもないと思うんですが。

A: だって来週から夏休み始まっちゃうし・・・

B: 去年の夏休みの注意事項には、この項目はなかったじゃないですか。なんで、今年になっていきなり、しかもこんな、夏休みの直前になって提案するんですか?

A: 春のうちからこんなこと話し合うわけにいかない・・・・

B: 今年の夏休みに間に合わせる必要はないでしょう。生徒の命にかかわる問題ですよ。軽々に結論を出さず、来年の夏までじっくり話し合ったらいいじゃないですか。去年はなかったんだし、来年まで待てないで今年じゃなきゃいけない根拠はあるんですか。

A: そんな、根拠ったって・・・

B: わかってますよ。ホントはどうでもいいんでしょ。生徒の健康なんて。生徒の命なんて。生徒のことを本気で考えてるんだったら、水だけじゃなくて、塩分のことだって、マグネシウムだって、そもそも、外出制限のことに触れてないことが、何よりの証拠だ。あんたはただヨネクニに頼まれて、自動販売機の売り上げを上げりゃーいいって・・・

A: もういいです!! 提案撤回します!

B: ナニ、テッカイ?! ズボシだったんでしょ!! 重要な提案じゃ無かったんですか。今更撤回なんて無責任な!

A: イイカゲンニーー、シロッ!!

A+B: アリガトーゴザイマシターー!


日本の議論(2) 「地球が何回まわったとき?!」

今は三十を過ぎた息子が小学生だったころ、何回か少年たちの「論争」を聞いたことがある。

彼らの「論争」での常套句が面白かった。

それはあらゆる「論争」において最強の「反論」を構成する万能の呪文であった。

「地球が何回まわったとき?!」

例えば、こんなふうに。

A 「トラのほうがライオンより強いんだぜ」
B 「ライオンのほうが強いに決まってるよ」

以上が何回か繰り返されて、

A 「この前テレビで言ってたよ」
B 「へー、何年何月何日何曜日、何時何分何秒、地球が何回まわったとき?!」

トラのほうでもライオンのほうでも、これを先に言ったほうが勝ち誇った顔をし、言われたほうは「反論」できずに悔しがるのだった。

実に子供らしい「論争」で、聞くたびに「またやっているよ」と笑ってしまうのだが、考えてみると我々おとなの世界でも、本質的に同様の議論が盛んなことに気付き、笑えない思いにとらわれる。

「そんなことは、聞いていなかった」
「十分に議論をすべき問題だ」
「早急に決めるべき事柄ではない」
「反対者も多数いるのだから」
「根回しが十分ではない」
「以前に言っていたことと違う」
「説明が不十分だ」
「全員の腹に落ちるまでに至っていない」
「この場に持ち出すべき議論ではない」
「順番が逆だ」
「何様と思っているのだ」
「言い方が悪い」
「それは本音とは思えない」
「あの時はそんなつもりで賛成したのではない」
「言っているヤツが気に食わない」
「国民感情を考慮すべきだ」

まだまだありそうだ。

もちろん、場合によりこれらを言ってもかまわないし、言うべきときもある。

しかし、これらは単独では反論になっていないことを認識すべきだ。

なんら、実質的な、本質的な議論を含んでいない。

反論とは、なぜ相手の言うことが正しくないのか、自分はどうしたいのか、すべきと考えるのか、それはなぜなのか、を明確に含んでいなければならない。

私は、米系、英系、オランダ系の会社での勤務が合計で二十数年に及んだが、そのどこでも、上のような文句を「反論」の根拠とするような議論はまれに見られても、その場合それらの「意見」が重視されることはなく、たいていの場合、無視されるか軽蔑さえされた。

何の本質的な主張を含まず、ただ、議論を停滞させるだけで、その進展に何の貢献もしないからだ。

かたや日本では、会社でも地域でも、果ては国会でも、こんな「議論」が論争の主要な部分を占める場合が、少なくないように見える。

わたしは「西洋カブレ」でも「反日家」でもなく、日本文化文明に強い誇りを持っているが、このことに関しては、私たち日本人に反省の必要があるとかねがね感じている。


2015年7月29日水曜日

日本の議論(1) 日経とFT 発行部数で考える日本の民主主義

日経がFTを買収する。

面白いニュースだ。

親となった日経が経営上よくFTを御することが出来るかどうかも見ものだが、その話ではない。

日経の発行部数は280万、デジタル有料読者が43万だそうだ。かたやFTの合計読者数は70万、うち50万がデジタル版の有料読者。

しかも日経の読者はほとんど日本人に限られるが、FTの読者は世界中に広がる。それでも、この圧倒的な差は一体何を意味するのか。

FTの記者がこの買収について意見を求められて、「日経のことを何も知らないのでこれから調べる」と答えていたのが印象的だ。

FTは世界のメディア中最も信頼されるメディアだ。世界のリーダーでFTの記事を読まない者はいないと言っていいだろう。

日本に関する記事、とくに近現代史がらみで、違和感があるものはあるが、全般的に国際的な取材力、分析力はいわゆるクオリティーペーパーの中でも抜きん出ていると思う。

ニューヨークタイムズ、ワシントンポストより優れていると思う。

例えば、ソ連の崩壊をいち早く予測した特集記事を読んだときのことは忘れられない。素晴らしい分析だった。

さて、つまり、発行部数と記事のクオリティーの間に、正の相関はないということだ。それどころか、ある意味、負の相関が疑われる。

日経、FTなど、個別メディアの問題ではなく、一般論として重大なテーマがここに含まれている。

民主主義の本質にかかわる問題だ。

骨董、芸術に限らず、政治、経済の洞察においても、目利きは常に少数派だ。

率直に言えば、大多数は本質を掴めないのだ。これが民主主義のパラドックスであり、ジレンマでさえある。

民主主義において、大衆の意見がものをいうことは勿論だ。

しかし、世論が目利きによってリードされなくては良い民主主義が実践され得ないという認識が国民の間に厳格に共有されていなければ、衆愚政治の罠から逃れることが出来ない。

よしんば国民大多数によって共有されないまでも、少なくとも政治家やメディアによって信じられていなければ、国民は、縫いぐるみの民主主義に愚弄され続けるほかない。

民主主義のもっとも進んでいるとされる欧米先進国において、クオリティーペーパーの発行部数は、日本と比較すると驚くほど小さい。

前述のごとく、FTで言えばほんの70万。それも世界全体での話だ。日経は280万プラスデジタル43万。日本だけで。

ニューヨークタイムズでもタイムズでもルモンドでもフィガロでもFTと状況は同じだ。

アメリカでもイギリスでもフランスでも、大衆は大衆向けのメディアしか読まないのだ。しかし、世論をリードするのは、もしくは誘導するのは圧倒的少数のエリートたちの知見だ。

日本の世論形成は、いわゆる先進国の中では特殊なのだ。

日本での世論は、主婦の井戸端会議や、サラリーマンの居酒屋談義や、それらに限りなく似せたニュース番組によって作られる。

だから、政治家が国会の中で反対勢力の悪口を書いたプラカードなどをテレビカメラに見せびらかしてわめいたりするのだ。

大衆が政治家に向かって訴えているのではない。政治家が大衆に同意を求めているのだ。感情的な同意を。

今回の安保法制論議を見ても、野党は細かい専門概念や限定条件や留保条件を削って、「ほらやっぱり外国を攻撃できるようにする法案じゃないですか。」などと目をむいて見せ、答える与党も、複雑な国際法上の議論などはテレビの視聴者には理解されないと思うから、そこは敢えてはぐらかして、野党の誘導する悪い印象を払拭しようと「わかり易い」たとえ話などで四苦八苦したりするのだろう。

どこの国でも大衆が複雑な事象を理解できないという状況は変わらない。その点日本が特殊なのではない。

日本が特殊なのは、専門家、学者、見識あるジャーナリスト、政治家の意見を大衆が尊重するのではなく、大衆こそが正しく判断する目を持っているという幻想が、あるいはまやかしが、この国の「民主主義」の公式の前提として崇め奉られていることだ。

そこでは、「よくわかるように説明しろ」という台詞が「反対意見」として万能の切り札になる。

この間違った前提を正さない限り、日本の民主主義の進化はあり得ない。

日本の有力紙、有力メディアが、つねに大衆読者を対象としているとすれば、そこでの論調、解説の品質は限定されざるを得ない。

日経のFT買収は、おそらくFTの記事に何の変化ももたらさないだろう。FTの記者や編集者が日経の影響を受けるはずがないし、日経も記事、編集の独立性を保障すると言っている。

逆に、日経の記事の内容や性格が変わることもないだろう。読者が変わらないのだから。

今回の買収が、日本の民主主義の進化に何らかの貢献をするだろう理由は、残念だが見当たらない。



2015年6月14日日曜日

今日、武者人形を飾った

五月五日はとっくに過ぎているのに、何故、武者人形なのか。

いや、端午の節句はまだ来ていない。

本来、節句は旧暦で祝うもの。今日は、旧暦では四月二十七日だ。

桃の花がまだ咲かない桃の節句、菖蒲の花のない端午の節句、梅雨の真っ最中でめったに会えない彦星織姫の七夕は、全て間違いだ。

明治以来、本来旧暦を前提とする伝統行事に新暦を当てはめて来たことは、愚かだ。

今年の端午の節句は6月20日土曜日、七夕は8月20日木曜日だ。








2015年5月15日金曜日

民主主義を信じない人たち

ニュース番組は安保法制議論で盛り上がっている。

これを見るにつけ、日本人の民主主義原理に対する理解の未熟に今更思い至る。

民主主義のさまざまな問題についての議論はひとまず留保しよう。私は、その欠点を認めながら、民主主義政体が現実に採りうる最善の政治体制だと考える。

民主主義政治体制をとる我が日本において、主権は国民に有り、国策決定の資格と責任は国民にある。国民は議院内閣制を通して、間接的に意思決定を行い、その責任を負う。この原理を否定する者は、いかに言い逃れをしようと民主主義者ではない。

民主主義的意思決定の結果、国民と国家は、その決定事項にかかわる権利または義務(あるいはその両方)を持つことになる。

ある特定の義務が生じれば、国民や国家は選択の余地無くその義務を履行しなければならない。一方、ある権利が生じれば、国民や国家はその権利を行使するか否か、選択を許される。

権利行使の是非は、しかるべき法的な手続きを経て決定される。

その決定の基準になるものは、国民や国家の意思と能力とその時の情勢判断などである。言うまでもなく、行使を否決すれば行使する必要は無い。

行使の具体的行動内容についての賛否は別にして、行使の是非の判断能力が国会または内閣にないという前提に立つと、民主主義自体が成り立たない。民主主義の否定である。

「集団的自衛権という権利を認めてしまうと、世界のどこでもアメリカの戦争に参加しなければならない義務が生じる」という議論は、権利と義務を混同する稚拙な議論である。この論者は、民主主義を論じる資格が無い。

「日本の国益に反することでも、アメリカの要求には反対できない」という人も、日本の民主主義の有効性を否定している。もし本当にそうなら、なぜあなたは今反対の声を上げているのか。

集団的自衛権は、国際法上、個別的自衛権と対になって自然権として万国に認められている。国連憲章はこれを明文化している(第51条)。この行使を自ら封じ込めていたのは国連加盟国中日本ただ一国である。

この権利を一度持てば世界中で戦争を始めなければならないと考えている国は存在しない。同時にこの自衛権をわざわざ制約している国も存在しない。

反復になるが、ひとたび権利を得たらその権利の行使の範囲を自ら制御できないと考えて権利を放棄しようというのは、自らの民主主義国としての能力、資格を否定している国、すなわち非民主主義国ということにほかならない。

権利を放棄してしまえば、将来、権利の行使が必要となったときでも行使できないのだ。(何と自明のことを繰り返さなければならないのか。)なぜそれを恐ろしいことと考えないのか不思議だ。

さらに極めて不可解なのは、これを言う人たちは、自分の、あるいは自国の民主的意思決定能力とその善意を全面否定する一方で、他国の良識と善意を疑わないという矛盾である。

矛盾というのは不適切であろう。失礼ながら無定見、蒙昧と呼ぶべきかもしれない。

一体、どういう見識に基づいて、一貫して平和主義を体現してきた自国の良識を信用しないで、猛烈な勢いで軍拡を実行し、周辺国の主権を脅かし、人権を抑圧してきた他国の軍事的抑制を信頼できるのだろうか。

民主主義制度を採用している自国の政策を制御できないと心配している人が、どうして非民主的、非自由主義的な他国政府の善意に身を委ねようとするのだろうか。

そしてこの人たちは、同時に、軍事的抑止力という概念を決して認めない人たちである。軍事力を持つと戦争が起こる。軍事力を持たなければ、あるいは使わないと宣言すれば戦争が防げると主張してはばからない。

しかも、お隣さんは急速な軍備拡張と軍事的示威行動を行っているその最中にである。

本当にそう信じているなら、自宅の家には一切鍵をかけず、現金をテーブルの上において過ごせばよい。強盗が入っても警察に通報しないと玄関に張り紙を出すべきである。そのとき、強盗が入る可能性は減るであろうか、増えるであろうか。

権利と義務を混同する、自分たちの選んだ自国政府は信用しない、独裁的な他国の危険な行動は見ようとしない、むしろその政府の善意を信用する。その上で、自国政府は民主的でないと叫ぶ。

この人たちは、一体どういう民主主義を自国に根付かせようとしているのだろうか。民主主義国であろうという意思を持っているのだろうか。

防衛政策で、まともな議論をしようというなら、次のような議論をすべきだと思う。

安全保障上の現在の、または潜在的な脅威の判定
脅威に対する万全な防衛措置の模索(軍事的措置に限定しない)
制約条件の認識と出来る限りの除去の模索(出来る限り制約しようというのは愚か)

他国との同盟、非同盟の最適化や、外交政策と軍事政策の最適ミックスも勿論上の議論に含まれる。

アメリカなど他国との同盟を否定し、自衛権を最小限にとどめると言う人たちは、一体どうしたら日本の主権と安全が守れると考えているのか、卓見を伺いたい。

そもそも民主主義を信じているのだろうか。



2014年11月25日火曜日

1Q84に見る村上春樹のニセモノ性

大騒ぎの出版からもう何年も経つが、今頃になって「1Q84」を読んでみた。

村上春樹は随分前に、今ではどれだか忘れてしまった一冊を、息子から借りて読もうとしたことがあったが、数ページでやめた。

その後、村上が文壇の主流から高い評価を得られないことを知った。当然だと思った。

近年、ノーベル賞の時期になると、必ず巷で村上が候補予想に挙げられるのをいぶかしく思う反面、それほどの才能をあるいは見逃していたのかも知れないという軽い悔恨を感じていた。

丁度そこに、最近相次いで複数の友人から熱心な勧めがあったので、あの長い小説全巻を中古で買い求めた。

数ページ読んでの感想は、以前のものと基本的に変わらなかった。大した文学賞に値するような小説では全然ない。

しかし、しばらく読み進むうちに、作家のある突出した技量に気付かされた。

今回ばかりは友人の忠告に従って最後まで読み切ろうと決めたこともあったが、それよりも作家のその手練に乗せられて、つい時間を忘れて読み続け、あの長編を短期間で読了した。

思わせぶりな筋立てと展開で読者の好奇心を激しく駆り立てるという点において、作家は名人、達人の域にあると言える。

しかし、それは、優れたテレビ作家の条件として決定的だとしても、優れた文学者であるための十分条件とはなり得ない。

もし十分条件であったなら、村上の前に、例えば英米作家のハードボイルド、サスペンス、ミステリー、SFなどの多くがノーベル文学賞の受賞候補、または受賞作となっていたはずだ。

一方、この小説には、いくつかの重大な瑕疵がある。

まず、第一に、全体のかなりの部分について文体が明らかに翻訳調である。

次に、無駄で奇をてらった比喩の多用がうるさい。

第三に、主要登場人物の全員に、作家固有の趣味があまりにあからさまに反映されている。

第四に、無駄な細部説明が多い。

そして最後に、主題、何を訴えたいのかが甚だ不明だ。いや、おそらく不在なのだ。



まず第一の点、文体の問題。

日本人が普段ほとんど使わない表現が頻出する。

それが作家の独創的な文体であるのなら、通常の日本語表現との相違がむしろ作品の芸術性を高める要素になる場合も有り得ようが、村上の場合、欧米の特に現代小説の邦訳によく見られる文体であって、彼の独創などではない。

しかし、日本文学の伝統に従わず、欧米文学の表現に擦り寄ることこそが、「村上文学」の「世界文学」たる証拠だ、との弁護も聞こえそうだ。

私は、「世界文学」の存在もその定義も知らないので、勿論その主張に与することは出来ないが、議論をすすめるためここは百歩譲って、仮にそのような弁護を認めたとしても、なお決定的な欠陥が弁明され得ずに残る。

それは、登場人物たちの発言の中に紛れ込む翻訳調文体だ。「紛れ込む」という表現がそぐわないほど頻繁に現れる。そしてこのことは、第二および第三の問題点とも重なる。

これは、人物描写の失敗という小説としては致命的な欠陥を意味する。

作家は、登場人物の現実的存在感とそれぞれの個性の構築とを犠牲にしてまで、自身の好む一つの語調を、彼らの口に語らせてしまっているのである。

もし、私たちが日常生活の中で、あのような翻訳調の言葉を話す日本人に出くわせば、何と気障で奇をてらったヤツだと思うに違いない。(「あいつは村上春樹の読みすぎだ。」)そんな人が、何人も自分の周りに現れれば、現実離れした、異様な空気を感じずにいられまい。

そして、登場人物の奇妙な言語は、多くの場合、さも得意げな比喩表現に現れる。

こんなにたくさんの比喩を日常会話の中で話す人が、実際の日本社会に存在しないことも不自然の一つだが、さらに、それら比喩表現の形態が、日本語の伝統によらず、英米娯楽小説に一般的な形態を採っていることも甚だ不自然だ。

凝った比喩表現が作家の作風だとしても、多くの異なる登場人物に、同じ特異な比喩趣味が共有されていることの醜さは、いくら譲っても看過し得ない。

しかも、その数の多さを見れば、それが決して「図らずも馬脚を現した」という体のものでないことが分かる。意識的に、あるいは開き直って、自分の趣味を登場人物たちに投影しているとしか考えられない。

そして、その比喩表現の多くが、物語の進行に、あるいは意味の正確な伝達にどうしても必要なものとは思われない。この作家は、ただ、変わった比喩表現の思い付きを一つ残らず見せびらかさずにいられないだけなのだろう。

しかし、主要人物全員への執拗な作家自身の趣味の流し込みは、比喩表現や翻訳口調に終わらない。

音楽や文学や料理や服飾などにも及ぶ。その具体的なブランド名の特定。

そしてこれもまた、欧米現代娯楽小説の陳腐な作法である。

その作法へのご執心が昂じて、第四の問題、即ち、行動や状況についての網羅的で細密な描写の連続にもつながると考えられる。

必要な細密描写は当然あっていい。不要なものが多すぎる。

その理由は明白である。不自然で非現実的な人物たちの現実感をどうにか補うための、そのためだけの対策なのだ。しかし、その努力は成功していない。

不自然で非現実的なのは、人物たちだけではない。物語全体を構成する主たる要素がことごとく不自然で非現実的だ。

その故に、読者は、その不自然さの謎解きを期待して、先へ先へと読み進ませられてしまうのだ。その謎たちが、そしてその解明が、きっと小説全体の主題に向かって収斂していくのだろうという当然の期待にワクワクしながら。

しかし、呆れたことに、結局、謎解きは一切無いままに終わる。リトルピープルの実体も、二つの月の意味も、愛人失踪の理由も、教祖の思想も、その娘の実体も。何もかも、ただ曖昧にはぐらかされて終わる。

これは、一種の詐欺と言ってもいい。

これらの奇妙な要素を散りばめて読者の好奇心を煽るだけ煽っておいて、そのからくりを一切提示、いや暗示すらすることなく、ただそれらはそのまんまあったこととして終わる。

読後の読者は、なんであんな詐欺に引っ掛かったのだろうと、自分の不明を恥じる被害者として取り残される。

あんなにも字数を費やして人物達の生い立ちを克明に綴っていながら、振り返ってみれば、なお誰一人として切れば血の出る生身の人間としての実感がない。

それは、その克明詳細な説明が、ただ、この小説が本当の世界と何のつながりも無いことを糊塗するためのアリバイ作りだからだ。詐欺師の巧妙な口車に過ぎないからだ。

小説の人物たちの人生と現実世界との間には、何の有機的な関連も存在しない。

私は、たまたま主人公天吾と一つ違いで、1984年の日本を彼と共に生きたはずだが、この小説ででっち上げられた世界に何の共感も、いや、何の実感すら感じることが出来なかった。

きっと、村上春樹という人物は、実際の世界を生きて来なかったのだろうと思う。彼の頭の中に無理やり作った彼の世界に生きていたし、今もそこに住んでいるのだろう。彼の大好きな、ジャズや、クラッシックや、料理や、アメリカの小説や、さまざまな道具たちだけで出来上がったバーチャルな世界に。

そういう意味で彼こそ現代的な作家であるとの主張が成り立ちそうだが、果たしてそうだろうか。

彼という存在、彼の書いた小説が、現代社会のある性格を象徴する題材、即ち客体として存在している、ということは言えるかもしれない。しかしそれは、彼の作家としての功績ではない。

例えば、スマートフォンを現代社会のある側面を象徴する題材として、優れた小説が書かれることは有り得るが、スマートフォン自体がそれを書くわけではない。

さて最後に、あの奇妙な謎たちに、1500ページ以上に渡って付き合わされた挙句、私たちが得たメッセージは何だったのか。

新興宗教の本質?いや、そんな厄介な分析は見当たらない。

現代人の孤独? 現代社会の非日常性? 生活感の希薄さ?家族の崩壊? はたまた、現代社会の不可解性? 

だとしたら、実際の日本社会を描写するか、せめてその実相を連想させてくれなければ、意味を成さないだろう。

有り得ない世界を作り上げておいて、その不可解を見せられたところで、それは作ったお前のせいだろうと答えるしかない。実際の世界と何のかかわりもない。

結局残るのは、二人の男女の恋愛の持つ強さとその成就の美しさということらしい。確かにそれなら酷く解り易く表現されている。あまりに解り易く。

こんな平凡なメッセージのために、あんなにも長々と、意味もない奇形のエピソードと人物達をでっち上げたのか。

いや、実は、この小説の仕組みは、村上が小説の中で、ごく直截的に白状してしまっている。

面白い小説であればそれは良い小説だ、ほかに何も必要ない、面白いことが良い小説の十分条件である、という趣旨のことを主人公に語らせている。

これこそが村上の本音であり、文壇主流派への挑戦のつもりなのだろう。

しかし、面白いにもいろいろある。

思わせぶりを巧みに仕組んで、ただ読者の好奇心を引っ張り回すことが出来れば、それだけで面白い小説だと言えるのか。面白いとしても実に軽薄な面白さだ。

何と浅はかで幼稚な文学観だろう。

文学が、現実世界の人やモノゴトを生々しく描写しながら、その本質のある一面を感動的に表現しなおすものだとの定義に従うとすれば、「1Q84」は、本物の文学ではない。

どんなに非現実的なエピソードを編んだとしても、登場する人や人の集まりである社会の本質的な性格は、現実世界のそれらを反映していなければならない。さもなければ、単なる絵空事となるばかりだ。

「1Q84」で村上が紡いだ物語の材料となったのは、現実に生きている本物の日本人ではない。アメリカ現代娯楽小説の中に作り出された架空の人物達である。だからしばしば登場人物は、彼らのような話し方をしたり、彼らのように拳銃を扱ったりする。

自然でも人間でも本物を写し取って、その本質を抉り出すのが本物の文学である。たとえ、物語が非現実的なものである場合でも。

既に他人の手で写し取られた影たちを、さらに写し取って作り上げた物語は、ニセモノと呼ぶほかない。

ディズニーランドに似ている。ディズニーランドは、現実社会を再表現したものではない。それは、ディズニーの描いた漫画の世界を再表現した構築物である。

それがどんなに楽しい経験を提供してくれても、それは芸術ではない。娯楽施設だ。そのことは、ディズニーの漫画、ないし動画作品が、一種の芸術作品たり得るいうことと両立する。ディズニーの描いたネズミの主人公は、ディズニーが現実のアメリカ人をモデルに再表現したものである。

「1Q84」は、村上春樹の個人的な趣味と奇妙な妄想の塊である。ただそれを物語らしく仕立てるために、詳細な描写が塗り重ねられているだけの作品だ。

何よりも、「1Q84」は読者の世界観に何らかの変化を残しただろうか。影響を及ぼしただろうか。変化を起こさないまでも、気付きを与えただろうか。あるいは、深い感動や強い共感を呼び起こしただろうか。心に残る喜びや、悲しみや、怒りを与えてくれただろうか。

では、人生の深遠なる神秘を見せてくれたか。

私の答えは、ことごとく「否」である。

冒頭から始まる思わせぶりは、その後どんどん水かさを増して、やがて奔流となって読者を押し流していくものの、どこまでも思わせぶりのままで、最後には水が引くように消えてなくなる。

こんな安易な小説が在っていいものか。

娯楽小説としてもひど過ぎやしないか。推理小説やサスペンスだったら、ただでは済まされない。まず出版の可能性がない。

村上が自身の嗜好で調合した、化学調味料だけで出来上がった加工食品をまんまとたらふく食わされた。ほら世界ってこんなに甘いもんだろとか、人生ってこんなに苦いものだろなどと言われたって、それはただ村上がそう味付けしたからで、本物の世界、私の世界観に何のかかわりも持たない。

つまり、読者の人生にとって毒にも薬にもならない。

こんな小説を、数年間の準備を経て、満を持して発表したのだと言うなら、他の作品を吟味するまでもない。推して知るべしである。

もし万一、村上春樹がノーベル文学賞を取るようなことがあったら、私は選考委員の不明を嘲笑するだけだ。

村上食品製造の合成食品を今後二度と口にすることは無いだろう。

2014年9月25日木曜日

気候変動と米中の今後、そして日本

国連気候変動首脳会合が閉幕した。

ニュースをざっと読む限り、いよいよ世界の政治的関心が本格化したとの印象が強い。

これからこの問題は、国際政治劇の端役から脇役へ、そして準主役へとグレードアップしていくだろう。

特に米中が動き出したことが、今後の展開に大きな質的変化をもたらすだろう。

より真剣な取り組みが始まりそうなのは間違いなく良いことだが、一方で不安も膨らむ。

真剣な取り組みへの誘引としては、勿論最近の世界的異常気象の頻発と、気候変動をうらづける科学的研究が進んだことが大きい。

しかし、そのほかに、あるいはそれ以上に、大国の政治家を駆り立てたのは、安全保障上の重要性の認識が高まったことだろう。

気候変動をめぐる国際政治合戦が格段に先鋭化するに違いない。

アメリカは、問題解決を主導するパートナーとして中国を強力に持ち上げた。そして結局中国はそれに応じた。

実際両国が最大の二酸化炭素排出国であり、最大の経済大国なのだから当然なのだが、それだけではなかろう。

アメリカは、世界の指導国としての地位獲得を目指す中国の野心を巧みに利用しようとしているように見える。

かつてレーガンは、軍拡競争にソ連を引きずり込み、計画的にソ連の経済を破綻させて冷戦に勝利した。

それに似た戦略的意図を今回のアメリカの対中対応に読み取るのはうがちすぎではなかろう。この誘いにまじめに応じるとすれば、中国は相当な予算をこれに振り向けなければならない。

その戦略は正しいと思う。

しかし、冷戦時代との環境の違いも甚だ大きい。米中を含む世界各国の経済的相互依存は広範深甚複雑に絡み合う。

かつての米ソのような単純明快な勝敗は起こり難い。さまざまな局面ごとの痛みわけ、引き分け、不戦勝、棄権、つまり、米中の政治的取引での決着となろう。これは望むことの出来る良いほうのシナリオだ。

下手をすれば、あからさまな衝突もあるだろう。

うまくすれば、中国の一党独裁体制崩壊を早めるかもしれない。相当な混乱を覚悟しても、それがいわゆる自由主義陣営にとっての最良のシナリオであり、中国国民にとってもしかり。

いずれにせよ、日本の外交は戦後のぬるま湯的環境から既に引きずり出されている。

日本にとってもっとも悪いシナリオは、米中の「大同団結」の結果、その影で極東情勢が二国の間でさまざま取引されることだろう。

おそらく、嫌でも取引は避けられまい。日本の出来ることは、その取引の場にどれだけ食い込めるか、どれだけ影響を与えられるかだろう。

改めて言うまでもなく、日本は、多角的でしたたかな外交手腕が試される厳しい時代の中心に放りこまれてしまっている。

2014年7月9日水曜日

連合国史観と集団的自衛権

硬貨の裏表ともいえる二つの問題がある。

日本人自身のアイデンティティー、自尊心の問題と、世界に流布する日本人に対する誤解の問題だ。

誤解と言ったがこれは勿論偶発の誤解ではない。複数国の複数のプロパガンダによって、意図的、計画的に造成され、植え付けられた誤解だ。

現在の国際政治の指導的諸国に共有される特定の歴史観は、言わば世界公認歴史観だが、そのプロパガンダを基本的に是認した上で成り立っている。

従って、その誤解を解こうと試みると、その議論は世界中から「修正主義」のレッテルを貼られ、敬遠され、嫌悪され、執拗に攻撃されかねない。

また、その議論を封じ込め、攻撃するための政治的対策も周到を極める。

結果、日本国内でも、無定見に「公認歴史観」を信奉する人々が大多数を占める。また、プロパガンダの目的達成のために故意に提唱する人々も存在する。

ヘンリーストークスの「連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社刊)は、その事情を簡潔明解に説き明かす名著だ。

ストークスは、その経歴から、公平で真摯な探究心を備えた一流のジャーナリストであることに疑いがない。

是非多くの人-日本人、外国人を問わず-に読んで欲しい。

ただ、原稿が英語のこの本も、和訳でしか出版されていない様子だ。残念だ。(因みに、一部誤訳の報道があり反対勢力からの攻撃が広まりそうになったが、後に誤報であるとの著者本人のメッセージが公表された。)

外国人の友人に是非贈りたいと思うのだが、それが出来ない。

冒頭で述べた二つの問題のうち、前者に対しては大いに有効である一方、後者に対しては無力であるのがいかにも惜しい。

集団的自衛権の扱いに対する議論がいよいよ大詰めを迎えつつある今、この本が出版されたことには大きな意義がある。

一般報道の場で、あるいは国民的議論の場で、個別的自衛権と集団的自衛権の区別がここまで熱心に論じられるのは、おそらく日本以外になかろう。

両者一体としての自衛権はどの国にも固有の権利として当然に認められるというのが国際法上の常識だからだ。国連憲章第51条にそれが明記されている(「個別的又は集団的自衛の固有の権利」)。

ではなぜ日本に限って集団的自衛権が個別的自衛権と区別されて大論争になるのかといえば、言うまでもなくマッカーサーが日本国民に下賜した「平和憲法」があるからだ。

この憲法は、憲法学専門外の若いアメリカ人官僚数人によって、一週間ほどで起草された。その最大の目的が、日本の戦力を永久ないし長期に無力化してアメリカに二度と反抗できない国に矯正することであったことは、論を待たない。

しかし、起草者およびマッカーサーでさえ、その後の国際情勢の変化を慮って起草したとは到底思えない。おそらく、情勢の変化に応じて改正されるものと漠然と想定していたと思われる。占領軍が急場しのぎに押し付けた憲法がこれほどの長期間大事にされるとは、一体誰が想定しただろう。

だから、第九条は、自衛のための戦争すら放棄していると読めるように書かれている。

ところが、朝鮮戦争が勃発し、アメリカではマッカーサーも日本の戦争が自衛であったことを公式に認め(やっと解ったか)、国内では警察予備隊として自衛隊の前進が発足する。その際政府は、憲法上自衛のための戦力は禁止されていないとの解釈を取った。しかし、ソ連中国の共産勢力とアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション戦略(戦争についての罪悪感を植え付ける戦略)に強く影響されていた世論を説得する必要から持ち出された苦肉の詭弁が「集団的自衛権は無理でも、個別的自衛権はいくらなんでも認めると解釈されるべきでしょう」というものだった。

「国際法上集団的自衛権も個別的自衛権と共に当然に日本にも与えられているが、日本国憲法の制約上集団的自衛権はその権利を行使することを留保した上で、個別的自衛権の発動は認める」というものだった。これで内外に対して憲法解釈上の折り合いを付けたのだ。

こんなアクロバティックな議論はない。

それだけ現憲法が危ういものであり、その運用上に困難があるということだ。

私は、現在及び今後の東アジア情勢を展望して、集団的自衛権の権利行使の権利(馬鹿げた言い回しだ)は、是非確保すべきだと考える。中国の軍事的拡張政策を牽制する現実的選択肢の中で、アメリカとの軍事同盟強化が最善と考えるからだ。

出来れば憲法改正をすべきだが、それが現実的に間に合わないのであれば、解釈の変更で乗り切ることも国の安全を保障するためにはやむを得ないと考える。

すでに解釈の変更により自衛隊を持っているのだから、普通の国と同様に集団的自衛権を個別的自衛権とともに認めるという解釈を封じなければならない理由などない。

日米の同盟に亀裂を生じさせたい中国は、「歴史問題」を持ち出してこの動きに対抗している。「歴史」、即ち連合国史観は米中で共有されているという認識を後ろ盾とする狡猾な戦略だ。言わば場外乱闘に持ち込んだのだ。

米国にはこのジレンマをいかに解決するかという試練が与えられた。下手をすると、東京裁判の不法性、不当性まで議論が及びかねない。とアメリカは考えるだろうと少なくとも中国は考えている。

戦後レジームからの脱却とは、そういうことを意味する。

しかし、漸くアメリカも「歴史問題」で中韓よりに立つことの愚を悟りつつあるように見える。

今はまさに日本の外交、安全保障政策の正念場だ。それどころか、日本民族の世界における評価を左右する屈折点にあるとも言える。

同時にアメリカにとっても国際政治上の重大局面だ。

ストークスはこの本の中で、集団的自衛権の問題には触れていない。しかし、三島由紀夫の「憲法改正の機会を永久に失った」との言葉を引用していることを見ても、この問題を意識しての執筆に間違いなかろう。