2014年9月25日木曜日

気候変動と米中の今後、そして日本

国連気候変動首脳会合が閉幕した。

ニュースをざっと読む限り、いよいよ世界の政治的関心が本格化したとの印象が強い。

これからこの問題は、国際政治劇の端役から脇役へ、そして準主役へとグレードアップしていくだろう。

特に米中が動き出したことが、今後の展開に大きな質的変化をもたらすだろう。

より真剣な取り組みが始まりそうなのは間違いなく良いことだが、一方で不安も膨らむ。

真剣な取り組みへの誘引としては、勿論最近の世界的異常気象の頻発と、気候変動をうらづける科学的研究が進んだことが大きい。

しかし、そのほかに、あるいはそれ以上に、大国の政治家を駆り立てたのは、安全保障上の重要性の認識が高まったことだろう。

気候変動をめぐる国際政治合戦が格段に先鋭化するに違いない。

アメリカは、問題解決を主導するパートナーとして中国を強力に持ち上げた。そして結局中国はそれに応じた。

実際両国が最大の二酸化炭素排出国であり、最大の経済大国なのだから当然なのだが、それだけではなかろう。

アメリカは、世界の指導国としての地位獲得を目指す中国の野心を巧みに利用しようとしているように見える。

かつてレーガンは、軍拡競争にソ連を引きずり込み、計画的にソ連の経済を破綻させて冷戦に勝利した。

それに似た戦略的意図を今回のアメリカの対中対応に読み取るのはうがちすぎではなかろう。この誘いにまじめに応じるとすれば、中国は相当な予算をこれに振り向けなければならない。

その戦略は正しいと思う。

しかし、冷戦時代との環境の違いも甚だ大きい。米中を含む世界各国の経済的相互依存は広範深甚複雑に絡み合う。

かつての米ソのような単純明快な勝敗は起こり難い。さまざまな局面ごとの痛みわけ、引き分け、不戦勝、棄権、つまり、米中の政治的取引での決着となろう。これは望むことの出来る良いほうのシナリオだ。

下手をすれば、あからさまな衝突もあるだろう。

うまくすれば、中国の一党独裁体制崩壊を早めるかもしれない。相当な混乱を覚悟しても、それがいわゆる自由主義陣営にとっての最良のシナリオであり、中国国民にとってもしかり。

いずれにせよ、日本の外交は戦後のぬるま湯的環境から既に引きずり出されている。

日本にとってもっとも悪いシナリオは、米中の「大同団結」の結果、その影で極東情勢が二国の間でさまざま取引されることだろう。

おそらく、嫌でも取引は避けられまい。日本の出来ることは、その取引の場にどれだけ食い込めるか、どれだけ影響を与えられるかだろう。

改めて言うまでもなく、日本は、多角的でしたたかな外交手腕が試される厳しい時代の中心に放りこまれてしまっている。

2014年7月9日水曜日

連合国史観と集団的自衛権

硬貨の裏表ともいえる二つの問題がある。

日本人自身のアイデンティティー、自尊心の問題と、世界に流布する日本人に対する誤解の問題だ。

誤解と言ったがこれは勿論偶発の誤解ではない。複数国の複数のプロパガンダによって、意図的、計画的に造成され、植え付けられた誤解だ。

現在の国際政治の指導的諸国に共有される特定の歴史観は、言わば世界公認歴史観だが、そのプロパガンダを基本的に是認した上で成り立っている。

従って、その誤解を解こうと試みると、その議論は世界中から「修正主義」のレッテルを貼られ、敬遠され、嫌悪され、執拗に攻撃されかねない。

また、その議論を封じ込め、攻撃するための政治的対策も周到を極める。

結果、日本国内でも、無定見に「公認歴史観」を信奉する人々が大多数を占める。また、プロパガンダの目的達成のために故意に提唱する人々も存在する。

ヘンリーストークスの「連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社刊)は、その事情を簡潔明解に説き明かす名著だ。

ストークスは、その経歴から、公平で真摯な探究心を備えた一流のジャーナリストであることに疑いがない。

是非多くの人-日本人、外国人を問わず-に読んで欲しい。

ただ、原稿が英語のこの本も、和訳でしか出版されていない様子だ。残念だ。(因みに、一部誤訳の報道があり反対勢力からの攻撃が広まりそうになったが、後に誤報であるとの著者本人のメッセージが公表された。)

外国人の友人に是非贈りたいと思うのだが、それが出来ない。

冒頭で述べた二つの問題のうち、前者に対しては大いに有効である一方、後者に対しては無力であるのがいかにも惜しい。

集団的自衛権の扱いに対する議論がいよいよ大詰めを迎えつつある今、この本が出版されたことには大きな意義がある。

一般報道の場で、あるいは国民的議論の場で、個別的自衛権と集団的自衛権の区別がここまで熱心に論じられるのは、おそらく日本以外になかろう。

両者一体としての自衛権はどの国にも固有の権利として当然に認められるというのが国際法上の常識だからだ。国連憲章第51条にそれが明記されている(「個別的又は集団的自衛の固有の権利」)。

ではなぜ日本に限って集団的自衛権が個別的自衛権と区別されて大論争になるのかといえば、言うまでもなくマッカーサーが日本国民に下賜した「平和憲法」があるからだ。

この憲法は、憲法学専門外の若いアメリカ人官僚数人によって、一週間ほどで起草された。その最大の目的が、日本の戦力を永久ないし長期に無力化してアメリカに二度と反抗できない国に矯正することであったことは、論を待たない。

しかし、起草者およびマッカーサーでさえ、その後の国際情勢の変化を慮って起草したとは到底思えない。おそらく、情勢の変化に応じて改正されるものと漠然と想定していたと思われる。占領軍が急場しのぎに押し付けた憲法がこれほどの長期間大事にされるとは、一体誰が想定しただろう。

だから、第九条は、自衛のための戦争すら放棄していると読めるように書かれている。

ところが、朝鮮戦争が勃発し、アメリカではマッカーサーも日本の戦争が自衛であったことを公式に認め(やっと解ったか)、国内では警察予備隊として自衛隊の前進が発足する。その際政府は、憲法上自衛のための戦力は禁止されていないとの解釈を取った。しかし、ソ連中国の共産勢力とアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション戦略(戦争についての罪悪感を植え付ける戦略)に強く影響されていた世論を説得する必要から持ち出された苦肉の詭弁が「集団的自衛権は無理でも、個別的自衛権はいくらなんでも認めると解釈されるべきでしょう」というものだった。

「国際法上集団的自衛権も個別的自衛権と共に当然に日本にも与えられているが、日本国憲法の制約上集団的自衛権はその権利を行使することを留保した上で、個別的自衛権の発動は認める」というものだった。これで内外に対して憲法解釈上の折り合いを付けたのだ。

こんなアクロバティックな議論はない。

それだけ現憲法が危ういものであり、その運用上に困難があるということだ。

私は、現在及び今後の東アジア情勢を展望して、集団的自衛権の権利行使の権利(馬鹿げた言い回しだ)は、是非確保すべきだと考える。中国の軍事的拡張政策を牽制する現実的選択肢の中で、アメリカとの軍事同盟強化が最善と考えるからだ。

出来れば憲法改正をすべきだが、それが現実的に間に合わないのであれば、解釈の変更で乗り切ることも国の安全を保障するためにはやむを得ないと考える。

すでに解釈の変更により自衛隊を持っているのだから、普通の国と同様に集団的自衛権を個別的自衛権とともに認めるという解釈を封じなければならない理由などない。

日米の同盟に亀裂を生じさせたい中国は、「歴史問題」を持ち出してこの動きに対抗している。「歴史」、即ち連合国史観は米中で共有されているという認識を後ろ盾とする狡猾な戦略だ。言わば場外乱闘に持ち込んだのだ。

米国にはこのジレンマをいかに解決するかという試練が与えられた。下手をすると、東京裁判の不法性、不当性まで議論が及びかねない。とアメリカは考えるだろうと少なくとも中国は考えている。

戦後レジームからの脱却とは、そういうことを意味する。

しかし、漸くアメリカも「歴史問題」で中韓よりに立つことの愚を悟りつつあるように見える。

今はまさに日本の外交、安全保障政策の正念場だ。それどころか、日本民族の世界における評価を左右する屈折点にあるとも言える。

同時にアメリカにとっても国際政治上の重大局面だ。

ストークスはこの本の中で、集団的自衛権の問題には触れていない。しかし、三島由紀夫の「憲法改正の機会を永久に失った」との言葉を引用していることを見ても、この問題を意識しての執筆に間違いなかろう。

2014年5月13日火曜日

文の「父」と我が母

硬派の文章が読みたくて勇んで買った幸田文の「父」は読み足が遅い。

繊細で緻密な感情描写が魅力だが、読み込むうちに女性特有の愚痴と弁明の言い募りだと気付く。

巧みで隙のない文章だけに、漸く鬱陶しくなる。

一葉を愛し書くことも好きだった我が母は生前、書けば結局愚痴になるから書き残したくないと言ったことがある。

「父」を読むとその言葉がその面影とともに蘇って私の胸を突く。

母は晩年老人ホームで認知症とパーキンソン氏病を病む父と過ごしたが、遺した俳句はどれも身の回りの四季の気配と夫への愛情を詠んだものだった。

2014年5月3日土曜日

夢か現か幻か


写真を撮るという作業は、現実生活に絵を見出すという芸術行為だ。

詩化して言わば、うつつに夢幻を見て取ってそれをうつつに固定するということ。

それを成功させる最大の要素は、撮り手の、私的内的景色を眼前の実世界に投影する能力か。

あるいは逆に、眼前の実像を心象に同化させる能力か。

否、外と内を一つと感受する境地かな。


2014年2月27日木曜日

雷蔵と淡路恵子じゃ見過ごせない!

昼食を終えてふとBS3を点けると丁度プレミアムシネマが始まったところだった。

濡髪三度笠。

雷蔵の三度笠シリーズは子どものころいくつか見たが、この一編を見たかどうかは記憶にない。

雷蔵は大好きだった。

アルマイトの洗面器を笠に、風呂敷を道中合羽に見立てて、よくまねをしちゃあ見栄を切ったものだ。

仁義の口上がなんとも格好よくって、真似をしていたら、父親に「やくざの真似などするな」としかられたこともあった。なぜそんなに怒るのか不思議だった。

さらに、冒頭早々にこれまた大好きな淡路佳子が登場。見ないわけに行かず最後まで堪能しました。ゴチソウサマ。

中村玉緒の村娘が可愛らしい。

ダイマル・ラケットの掛け合いも懐かしい。あのころの大阪漫才はほのぼのといい味出してた。

我輩も歳をとった。昭和は遠くなった。

参照:
http://www.raizofan.net/link4/movie4/sando.htm

2014年2月20日木曜日

勝つと思うな思えば負けよ・・・大脳の支配から抜け出せ

真央ちゃんのショートプログラムは失敗だった。まことに残念。真央ちゃんの気持ちを察するとこちらの胸も痛む。

真央ちゃんのスケート技術は最高だ。やはり問題は精神面だと僕も思う。

彼女は、勝負への執念が強すぎるように見える。その結果自分を追い詰めすぎる。最後の最後には天地に身を任すことが必要なのだが、それが出来ない。

すべて自分でコントロールしようとしている。そうしないといけないと思っている。スケート中に何が起こっても、すべて自分の技術で何とかしなければいけないと思っている。その結果、リラックスが出来ない。ひいては集中が出来ない。

頭で滑っている。表面意識で滑っている。無意識で滑ることが出来ていない。一瞬一瞬の知覚を大脳で情報処理して体にフィードバックして、最適な反応をしようとしている。それは、所詮無理な試みだ。

表情と体のこわばりがそれを顕している。硬い。僕が習っている心身統一合氣道の言葉を使えば、一点が上がっている。

この点、キムヨナは対照的だ。鈴木明子や荒川静香にも言えるが、彼女たちには、多かれ少なかれ、演技中に勝負へのこだわりを忘れた没頭、没我が見て取れる。

とりわけキムヨナにもっとも顕著に現れている。彼女は踊りに入り込んでいる。彼女はその時勝負をしているのではない。全身全霊で踊りを踊っている。

大脳の干渉から解放されている。

だから見るものに最高の感動を与えるし、失敗も少なくなるのだ。

是非、真央ちゃんにそのことを解ってほしい。会得して欲しい。

ここで僕がこんなことを書いても、本人に届くことはないだろうが、心から願っている。




2014年2月15日土曜日

雪のリゾートでまりやと一緒に麦酒を飲む

幸い家人は上京した娘と昨日からディズニーランドへ遊びに行っている。

生憎この雪でホテルに缶詰だろうが、それも母娘二人で楽しんでいることだろう。

一尺ほどの積雪、外出はない。勿論車の運転はあり得ない。

こんな日こそ、日中早くから酒を飲むに限る。今日は一日が長いぞ。

昼食には、先日のトマトシチューの残りを温めて茹でたブロッコリーを添えて、トーストと一緒に食べよう。となれば、麦酒だ。

いや、食品偽装のそしりを避けて正確を期せば、実は「金麦」、我が御用達の発泡酒だ。

テレビはやめてCDを聴こう。リラックスできる曲がいい。

ここは是非竹内まりやにご登場願おう。


先日500円で買った中古の"Impressios"。なめらかなメロディー、柔らかで潤いのあるまりやの声が、ほろ酔い老人の脳に浸みる。

トーストの最後の一欠けらに、取って置きのバターと自家製マーマレードを載せてほうばれば、これで立派な雪のリゾートの午後が完成だ。