2015年7月29日水曜日

日本の議論(1) 日経とFT 発行部数で考える日本の民主主義

日経がFTを買収する。

面白いニュースだ。

親となった日経が経営上よくFTを御することが出来るかどうかも見ものだが、その話ではない。

日経の発行部数は280万、デジタル有料読者が43万だそうだ。かたやFTの合計読者数は70万、うち50万がデジタル版の有料読者。

しかも日経の読者はほとんど日本人に限られるが、FTの読者は世界中に広がる。それでも、この圧倒的な差は一体何を意味するのか。

FTの記者がこの買収について意見を求められて、「日経のことを何も知らないのでこれから調べる」と答えていたのが印象的だ。

FTは世界のメディア中最も信頼されるメディアだ。世界のリーダーでFTの記事を読まない者はいないと言っていいだろう。

日本に関する記事、とくに近現代史がらみで、違和感があるものはあるが、全般的に国際的な取材力、分析力はいわゆるクオリティーペーパーの中でも抜きん出ていると思う。

ニューヨークタイムズ、ワシントンポストより優れていると思う。

例えば、ソ連の崩壊をいち早く予測した特集記事を読んだときのことは忘れられない。素晴らしい分析だった。

さて、つまり、発行部数と記事のクオリティーの間に、正の相関はないということだ。それどころか、ある意味、負の相関が疑われる。

日経、FTなど、個別メディアの問題ではなく、一般論として重大なテーマがここに含まれている。

民主主義の本質にかかわる問題だ。

骨董、芸術に限らず、政治、経済の洞察においても、目利きは常に少数派だ。

率直に言えば、大多数は本質を掴めないのだ。これが民主主義のパラドックスであり、ジレンマでさえある。

民主主義において、大衆の意見がものをいうことは勿論だ。

しかし、世論が目利きによってリードされなくては良い民主主義が実践され得ないという認識が国民の間に厳格に共有されていなければ、衆愚政治の罠から逃れることが出来ない。

よしんば国民大多数によって共有されないまでも、少なくとも政治家やメディアによって信じられていなければ、国民は、縫いぐるみの民主主義に愚弄され続けるほかない。

民主主義のもっとも進んでいるとされる欧米先進国において、クオリティーペーパーの発行部数は、日本と比較すると驚くほど小さい。

前述のごとく、FTで言えばほんの70万。それも世界全体での話だ。日経は280万プラスデジタル43万。日本だけで。

ニューヨークタイムズでもタイムズでもルモンドでもフィガロでもFTと状況は同じだ。

アメリカでもイギリスでもフランスでも、大衆は大衆向けのメディアしか読まないのだ。しかし、世論をリードするのは、もしくは誘導するのは圧倒的少数のエリートたちの知見だ。

日本の世論形成は、いわゆる先進国の中では特殊なのだ。

日本での世論は、主婦の井戸端会議や、サラリーマンの居酒屋談義や、それらに限りなく似せたニュース番組によって作られる。

だから、政治家が国会の中で反対勢力の悪口を書いたプラカードなどをテレビカメラに見せびらかしてわめいたりするのだ。

大衆が政治家に向かって訴えているのではない。政治家が大衆に同意を求めているのだ。感情的な同意を。

今回の安保法制論議を見ても、野党は細かい専門概念や限定条件や留保条件を削って、「ほらやっぱり外国を攻撃できるようにする法案じゃないですか。」などと目をむいて見せ、答える与党も、複雑な国際法上の議論などはテレビの視聴者には理解されないと思うから、そこは敢えてはぐらかして、野党の誘導する悪い印象を払拭しようと「わかり易い」たとえ話などで四苦八苦したりするのだろう。

どこの国でも大衆が複雑な事象を理解できないという状況は変わらない。その点日本が特殊なのではない。

日本が特殊なのは、専門家、学者、見識あるジャーナリスト、政治家の意見を大衆が尊重するのではなく、大衆こそが正しく判断する目を持っているという幻想が、あるいはまやかしが、この国の「民主主義」の公式の前提として崇め奉られていることだ。

そこでは、「よくわかるように説明しろ」という台詞が「反対意見」として万能の切り札になる。

この間違った前提を正さない限り、日本の民主主義の進化はあり得ない。

日本の有力紙、有力メディアが、つねに大衆読者を対象としているとすれば、そこでの論調、解説の品質は限定されざるを得ない。

日経のFT買収は、おそらくFTの記事に何の変化ももたらさないだろう。FTの記者や編集者が日経の影響を受けるはずがないし、日経も記事、編集の独立性を保障すると言っている。

逆に、日経の記事の内容や性格が変わることもないだろう。読者が変わらないのだから。

今回の買収が、日本の民主主義の進化に何らかの貢献をするだろう理由は、残念だが見当たらない。



2015年6月14日日曜日

今日、武者人形を飾った

五月五日はとっくに過ぎているのに、何故、武者人形なのか。

いや、端午の節句はまだ来ていない。

本来、節句は旧暦で祝うもの。今日は、旧暦では四月二十七日だ。

桃の花がまだ咲かない桃の節句、菖蒲の花のない端午の節句、梅雨の真っ最中でめったに会えない彦星織姫の七夕は、全て間違いだ。

明治以来、本来旧暦を前提とする伝統行事に新暦を当てはめて来たことは、愚かだ。

今年の端午の節句は6月20日土曜日、七夕は8月20日木曜日だ。








2015年5月15日金曜日

民主主義を信じない人たち

ニュース番組は安保法制議論で盛り上がっている。

これを見るにつけ、日本人の民主主義原理に対する理解の未熟に今更思い至る。

民主主義のさまざまな問題についての議論はひとまず留保しよう。私は、その欠点を認めながら、民主主義政体が現実に採りうる最善の政治体制だと考える。

民主主義政治体制をとる我が日本において、主権は国民に有り、国策決定の資格と責任は国民にある。国民は議院内閣制を通して、間接的に意思決定を行い、その責任を負う。この原理を否定する者は、いかに言い逃れをしようと民主主義者ではない。

民主主義的意思決定の結果、国民と国家は、その決定事項にかかわる権利または義務(あるいはその両方)を持つことになる。

ある特定の義務が生じれば、国民や国家は選択の余地無くその義務を履行しなければならない。一方、ある権利が生じれば、国民や国家はその権利を行使するか否か、選択を許される。

権利行使の是非は、しかるべき法的な手続きを経て決定される。

その決定の基準になるものは、国民や国家の意思と能力とその時の情勢判断などである。言うまでもなく、行使を否決すれば行使する必要は無い。

行使の具体的行動内容についての賛否は別にして、行使の是非の判断能力が国会または内閣にないという前提に立つと、民主主義自体が成り立たない。民主主義の否定である。

「集団的自衛権という権利を認めてしまうと、世界のどこでもアメリカの戦争に参加しなければならない義務が生じる」という議論は、権利と義務を混同する稚拙な議論である。この論者は、民主主義を論じる資格が無い。

「日本の国益に反することでも、アメリカの要求には反対できない」という人も、日本の民主主義の有効性を否定している。もし本当にそうなら、なぜあなたは今反対の声を上げているのか。

集団的自衛権は、国際法上、個別的自衛権と対になって自然権として万国に認められている。国連憲章はこれを明文化している(第51条)。この行使を自ら封じ込めていたのは国連加盟国中日本ただ一国である。

この権利を一度持てば世界中で戦争を始めなければならないと考えている国は存在しない。同時にこの自衛権をわざわざ制約している国も存在しない。

反復になるが、ひとたび権利を得たらその権利の行使の範囲を自ら制御できないと考えて権利を放棄しようというのは、自らの民主主義国としての能力、資格を否定している国、すなわち非民主主義国ということにほかならない。

権利を放棄してしまえば、将来、権利の行使が必要となったときでも行使できないのだ。(何と自明のことを繰り返さなければならないのか。)なぜそれを恐ろしいことと考えないのか不思議だ。

さらに極めて不可解なのは、これを言う人たちは、自分の、あるいは自国の民主的意思決定能力とその善意を全面否定する一方で、他国の良識と善意を疑わないという矛盾である。

矛盾というのは不適切であろう。失礼ながら無定見、蒙昧と呼ぶべきかもしれない。

一体、どういう見識に基づいて、一貫して平和主義を体現してきた自国の良識を信用しないで、猛烈な勢いで軍拡を実行し、周辺国の主権を脅かし、人権を抑圧してきた他国の軍事的抑制を信頼できるのだろうか。

民主主義制度を採用している自国の政策を制御できないと心配している人が、どうして非民主的、非自由主義的な他国政府の善意に身を委ねようとするのだろうか。

そしてこの人たちは、同時に、軍事的抑止力という概念を決して認めない人たちである。軍事力を持つと戦争が起こる。軍事力を持たなければ、あるいは使わないと宣言すれば戦争が防げると主張してはばからない。

しかも、お隣さんは急速な軍備拡張と軍事的示威行動を行っているその最中にである。

本当にそう信じているなら、自宅の家には一切鍵をかけず、現金をテーブルの上において過ごせばよい。強盗が入っても警察に通報しないと玄関に張り紙を出すべきである。そのとき、強盗が入る可能性は減るであろうか、増えるであろうか。

権利と義務を混同する、自分たちの選んだ自国政府は信用しない、独裁的な他国の危険な行動は見ようとしない、むしろその政府の善意を信用する。その上で、自国政府は民主的でないと叫ぶ。

この人たちは、一体どういう民主主義を自国に根付かせようとしているのだろうか。民主主義国であろうという意思を持っているのだろうか。

防衛政策で、まともな議論をしようというなら、次のような議論をすべきだと思う。

安全保障上の現在の、または潜在的な脅威の判定
脅威に対する万全な防衛措置の模索(軍事的措置に限定しない)
制約条件の認識と出来る限りの除去の模索(出来る限り制約しようというのは愚か)

他国との同盟、非同盟の最適化や、外交政策と軍事政策の最適ミックスも勿論上の議論に含まれる。

アメリカなど他国との同盟を否定し、自衛権を最小限にとどめると言う人たちは、一体どうしたら日本の主権と安全が守れると考えているのか、卓見を伺いたい。

そもそも民主主義を信じているのだろうか。



2014年11月25日火曜日

1Q84に見る村上春樹のニセモノ性

大騒ぎの出版からもう何年も経つが、今頃になって「1Q84」を読んでみた。

村上春樹は随分前に、今ではどれだか忘れてしまった一冊を、息子から借りて読もうとしたことがあったが、数ページでやめた。

その後、村上が文壇の主流から高い評価を得られないことを知った。当然だと思った。

近年、ノーベル賞の時期になると、必ず巷で村上が候補予想に挙げられるのをいぶかしく思う反面、それほどの才能をあるいは見逃していたのかも知れないという軽い悔恨を感じていた。

丁度そこに、最近相次いで複数の友人から熱心な勧めがあったので、あの長い小説全巻を中古で買い求めた。

数ページ読んでの感想は、以前のものと基本的に変わらなかった。大した文学賞に値するような小説では全然ない。

しかし、しばらく読み進むうちに、作家のある突出した技量に気付かされた。

今回ばかりは友人の忠告に従って最後まで読み切ろうと決めたこともあったが、それよりも作家のその手練に乗せられて、つい時間を忘れて読み続け、あの長編を短期間で読了した。

思わせぶりな筋立てと展開で読者の好奇心を激しく駆り立てるという点において、作家は名人、達人の域にあると言える。

しかし、それは、優れたテレビ作家の条件として決定的だとしても、優れた文学者であるための十分条件とはなり得ない。

もし十分条件であったなら、村上の前に、例えば英米作家のハードボイルド、サスペンス、ミステリー、SFなどの多くがノーベル文学賞の受賞候補、または受賞作となっていたはずだ。

一方、この小説には、いくつかの重大な瑕疵がある。

まず、第一に、全体のかなりの部分について文体が明らかに翻訳調である。

次に、無駄で奇をてらった比喩の多用がうるさい。

第三に、主要登場人物の全員に、作家固有の趣味があまりにあからさまに反映されている。

第四に、無駄な細部説明が多い。

そして最後に、主題、何を訴えたいのかが甚だ不明だ。いや、おそらく不在なのだ。



まず第一の点、文体の問題。

日本人が普段ほとんど使わない表現が頻出する。

それが作家の独創的な文体であるのなら、通常の日本語表現との相違がむしろ作品の芸術性を高める要素になる場合も有り得ようが、村上の場合、欧米の特に現代小説の邦訳によく見られる文体であって、彼の独創などではない。

しかし、日本文学の伝統に従わず、欧米文学の表現に擦り寄ることこそが、「村上文学」の「世界文学」たる証拠だ、との弁護も聞こえそうだ。

私は、「世界文学」の存在もその定義も知らないので、勿論その主張に与することは出来ないが、議論をすすめるためここは百歩譲って、仮にそのような弁護を認めたとしても、なお決定的な欠陥が弁明され得ずに残る。

それは、登場人物たちの発言の中に紛れ込む翻訳調文体だ。「紛れ込む」という表現がそぐわないほど頻繁に現れる。そしてこのことは、第二および第三の問題点とも重なる。

これは、人物描写の失敗という小説としては致命的な欠陥を意味する。

作家は、登場人物の現実的存在感とそれぞれの個性の構築とを犠牲にしてまで、自身の好む一つの語調を、彼らの口に語らせてしまっているのである。

もし、私たちが日常生活の中で、あのような翻訳調の言葉を話す日本人に出くわせば、何と気障で奇をてらったヤツだと思うに違いない。(「あいつは村上春樹の読みすぎだ。」)そんな人が、何人も自分の周りに現れれば、現実離れした、異様な空気を感じずにいられまい。

そして、登場人物の奇妙な言語は、多くの場合、さも得意げな比喩表現に現れる。

こんなにたくさんの比喩を日常会話の中で話す人が、実際の日本社会に存在しないことも不自然の一つだが、さらに、それら比喩表現の形態が、日本語の伝統によらず、英米娯楽小説に一般的な形態を採っていることも甚だ不自然だ。

凝った比喩表現が作家の作風だとしても、多くの異なる登場人物に、同じ特異な比喩趣味が共有されていることの醜さは、いくら譲っても看過し得ない。

しかも、その数の多さを見れば、それが決して「図らずも馬脚を現した」という体のものでないことが分かる。意識的に、あるいは開き直って、自分の趣味を登場人物たちに投影しているとしか考えられない。

そして、その比喩表現の多くが、物語の進行に、あるいは意味の正確な伝達にどうしても必要なものとは思われない。この作家は、ただ、変わった比喩表現の思い付きを一つ残らず見せびらかさずにいられないだけなのだろう。

しかし、主要人物全員への執拗な作家自身の趣味の流し込みは、比喩表現や翻訳口調に終わらない。

音楽や文学や料理や服飾などにも及ぶ。その具体的なブランド名の特定。

そしてこれもまた、欧米現代娯楽小説の陳腐な作法である。

その作法へのご執心が昂じて、第四の問題、即ち、行動や状況についての網羅的で細密な描写の連続にもつながると考えられる。

必要な細密描写は当然あっていい。不要なものが多すぎる。

その理由は明白である。不自然で非現実的な人物たちの現実感をどうにか補うための、そのためだけの対策なのだ。しかし、その努力は成功していない。

不自然で非現実的なのは、人物たちだけではない。物語全体を構成する主たる要素がことごとく不自然で非現実的だ。

その故に、読者は、その不自然さの謎解きを期待して、先へ先へと読み進ませられてしまうのだ。その謎たちが、そしてその解明が、きっと小説全体の主題に向かって収斂していくのだろうという当然の期待にワクワクしながら。

しかし、呆れたことに、結局、謎解きは一切無いままに終わる。リトルピープルの実体も、二つの月の意味も、愛人失踪の理由も、教祖の思想も、その娘の実体も。何もかも、ただ曖昧にはぐらかされて終わる。

これは、一種の詐欺と言ってもいい。

これらの奇妙な要素を散りばめて読者の好奇心を煽るだけ煽っておいて、そのからくりを一切提示、いや暗示すらすることなく、ただそれらはそのまんまあったこととして終わる。

読後の読者は、なんであんな詐欺に引っ掛かったのだろうと、自分の不明を恥じる被害者として取り残される。

あんなにも字数を費やして人物達の生い立ちを克明に綴っていながら、振り返ってみれば、なお誰一人として切れば血の出る生身の人間としての実感がない。

それは、その克明詳細な説明が、ただ、この小説が本当の世界と何のつながりも無いことを糊塗するためのアリバイ作りだからだ。詐欺師の巧妙な口車に過ぎないからだ。

小説の人物たちの人生と現実世界との間には、何の有機的な関連も存在しない。

私は、たまたま主人公天吾と一つ違いで、1984年の日本を彼と共に生きたはずだが、この小説ででっち上げられた世界に何の共感も、いや、何の実感すら感じることが出来なかった。

きっと、村上春樹という人物は、実際の世界を生きて来なかったのだろうと思う。彼の頭の中に無理やり作った彼の世界に生きていたし、今もそこに住んでいるのだろう。彼の大好きな、ジャズや、クラッシックや、料理や、アメリカの小説や、さまざまな道具たちだけで出来上がったバーチャルな世界に。

そういう意味で彼こそ現代的な作家であるとの主張が成り立ちそうだが、果たしてそうだろうか。

彼という存在、彼の書いた小説が、現代社会のある性格を象徴する題材、即ち客体として存在している、ということは言えるかもしれない。しかしそれは、彼の作家としての功績ではない。

例えば、スマートフォンを現代社会のある側面を象徴する題材として、優れた小説が書かれることは有り得るが、スマートフォン自体がそれを書くわけではない。

さて最後に、あの奇妙な謎たちに、1500ページ以上に渡って付き合わされた挙句、私たちが得たメッセージは何だったのか。

新興宗教の本質?いや、そんな厄介な分析は見当たらない。

現代人の孤独? 現代社会の非日常性? 生活感の希薄さ?家族の崩壊? はたまた、現代社会の不可解性? 

だとしたら、実際の日本社会を描写するか、せめてその実相を連想させてくれなければ、意味を成さないだろう。

有り得ない世界を作り上げておいて、その不可解を見せられたところで、それは作ったお前のせいだろうと答えるしかない。実際の世界と何のかかわりもない。

結局残るのは、二人の男女の恋愛の持つ強さとその成就の美しさということらしい。確かにそれなら酷く解り易く表現されている。あまりに解り易く。

こんな平凡なメッセージのために、あんなにも長々と、意味もない奇形のエピソードと人物達をでっち上げたのか。

いや、実は、この小説の仕組みは、村上が小説の中で、ごく直截的に白状してしまっている。

面白い小説であればそれは良い小説だ、ほかに何も必要ない、面白いことが良い小説の十分条件である、という趣旨のことを主人公に語らせている。

これこそが村上の本音であり、文壇主流派への挑戦のつもりなのだろう。

しかし、面白いにもいろいろある。

思わせぶりを巧みに仕組んで、ただ読者の好奇心を引っ張り回すことが出来れば、それだけで面白い小説だと言えるのか。面白いとしても実に軽薄な面白さだ。

何と浅はかで幼稚な文学観だろう。

文学が、現実世界の人やモノゴトを生々しく描写しながら、その本質のある一面を感動的に表現しなおすものだとの定義に従うとすれば、「1Q84」は、本物の文学ではない。

どんなに非現実的なエピソードを編んだとしても、登場する人や人の集まりである社会の本質的な性格は、現実世界のそれらを反映していなければならない。さもなければ、単なる絵空事となるばかりだ。

「1Q84」で村上が紡いだ物語の材料となったのは、現実に生きている本物の日本人ではない。アメリカ現代娯楽小説の中に作り出された架空の人物達である。だからしばしば登場人物は、彼らのような話し方をしたり、彼らのように拳銃を扱ったりする。

自然でも人間でも本物を写し取って、その本質を抉り出すのが本物の文学である。たとえ、物語が非現実的なものである場合でも。

既に他人の手で写し取られた影たちを、さらに写し取って作り上げた物語は、ニセモノと呼ぶほかない。

ディズニーランドに似ている。ディズニーランドは、現実社会を再表現したものではない。それは、ディズニーの描いた漫画の世界を再表現した構築物である。

それがどんなに楽しい経験を提供してくれても、それは芸術ではない。娯楽施設だ。そのことは、ディズニーの漫画、ないし動画作品が、一種の芸術作品たり得るいうことと両立する。ディズニーの描いたネズミの主人公は、ディズニーが現実のアメリカ人をモデルに再表現したものである。

「1Q84」は、村上春樹の個人的な趣味と奇妙な妄想の塊である。ただそれを物語らしく仕立てるために、詳細な描写が塗り重ねられているだけの作品だ。

何よりも、「1Q84」は読者の世界観に何らかの変化を残しただろうか。影響を及ぼしただろうか。変化を起こさないまでも、気付きを与えただろうか。あるいは、深い感動や強い共感を呼び起こしただろうか。心に残る喜びや、悲しみや、怒りを与えてくれただろうか。

では、人生の深遠なる神秘を見せてくれたか。

私の答えは、ことごとく「否」である。

冒頭から始まる思わせぶりは、その後どんどん水かさを増して、やがて奔流となって読者を押し流していくものの、どこまでも思わせぶりのままで、最後には水が引くように消えてなくなる。

こんな安易な小説が在っていいものか。

娯楽小説としてもひど過ぎやしないか。推理小説やサスペンスだったら、ただでは済まされない。まず出版の可能性がない。

村上が自身の嗜好で調合した、化学調味料だけで出来上がった加工食品をまんまとたらふく食わされた。ほら世界ってこんなに甘いもんだろとか、人生ってこんなに苦いものだろなどと言われたって、それはただ村上がそう味付けしたからで、本物の世界、私の世界観に何のかかわりも持たない。

つまり、読者の人生にとって毒にも薬にもならない。

こんな小説を、数年間の準備を経て、満を持して発表したのだと言うなら、他の作品を吟味するまでもない。推して知るべしである。

もし万一、村上春樹がノーベル文学賞を取るようなことがあったら、私は選考委員の不明を嘲笑するだけだ。

村上食品製造の合成食品を今後二度と口にすることは無いだろう。

2014年9月25日木曜日

気候変動と米中の今後、そして日本

国連気候変動首脳会合が閉幕した。

ニュースをざっと読む限り、いよいよ世界の政治的関心が本格化したとの印象が強い。

これからこの問題は、国際政治劇の端役から脇役へ、そして準主役へとグレードアップしていくだろう。

特に米中が動き出したことが、今後の展開に大きな質的変化をもたらすだろう。

より真剣な取り組みが始まりそうなのは間違いなく良いことだが、一方で不安も膨らむ。

真剣な取り組みへの誘引としては、勿論最近の世界的異常気象の頻発と、気候変動をうらづける科学的研究が進んだことが大きい。

しかし、そのほかに、あるいはそれ以上に、大国の政治家を駆り立てたのは、安全保障上の重要性の認識が高まったことだろう。

気候変動をめぐる国際政治合戦が格段に先鋭化するに違いない。

アメリカは、問題解決を主導するパートナーとして中国を強力に持ち上げた。そして結局中国はそれに応じた。

実際両国が最大の二酸化炭素排出国であり、最大の経済大国なのだから当然なのだが、それだけではなかろう。

アメリカは、世界の指導国としての地位獲得を目指す中国の野心を巧みに利用しようとしているように見える。

かつてレーガンは、軍拡競争にソ連を引きずり込み、計画的にソ連の経済を破綻させて冷戦に勝利した。

それに似た戦略的意図を今回のアメリカの対中対応に読み取るのはうがちすぎではなかろう。この誘いにまじめに応じるとすれば、中国は相当な予算をこれに振り向けなければならない。

その戦略は正しいと思う。

しかし、冷戦時代との環境の違いも甚だ大きい。米中を含む世界各国の経済的相互依存は広範深甚複雑に絡み合う。

かつての米ソのような単純明快な勝敗は起こり難い。さまざまな局面ごとの痛みわけ、引き分け、不戦勝、棄権、つまり、米中の政治的取引での決着となろう。これは望むことの出来る良いほうのシナリオだ。

下手をすれば、あからさまな衝突もあるだろう。

うまくすれば、中国の一党独裁体制崩壊を早めるかもしれない。相当な混乱を覚悟しても、それがいわゆる自由主義陣営にとっての最良のシナリオであり、中国国民にとってもしかり。

いずれにせよ、日本の外交は戦後のぬるま湯的環境から既に引きずり出されている。

日本にとってもっとも悪いシナリオは、米中の「大同団結」の結果、その影で極東情勢が二国の間でさまざま取引されることだろう。

おそらく、嫌でも取引は避けられまい。日本の出来ることは、その取引の場にどれだけ食い込めるか、どれだけ影響を与えられるかだろう。

改めて言うまでもなく、日本は、多角的でしたたかな外交手腕が試される厳しい時代の中心に放りこまれてしまっている。

2014年7月9日水曜日

連合国史観と集団的自衛権

硬貨の裏表ともいえる二つの問題がある。

日本人自身のアイデンティティー、自尊心の問題と、世界に流布する日本人に対する誤解の問題だ。

誤解と言ったがこれは勿論偶発の誤解ではない。複数国の複数のプロパガンダによって、意図的、計画的に造成され、植え付けられた誤解だ。

現在の国際政治の指導的諸国に共有される特定の歴史観は、言わば世界公認歴史観だが、そのプロパガンダを基本的に是認した上で成り立っている。

従って、その誤解を解こうと試みると、その議論は世界中から「修正主義」のレッテルを貼られ、敬遠され、嫌悪され、執拗に攻撃されかねない。

また、その議論を封じ込め、攻撃するための政治的対策も周到を極める。

結果、日本国内でも、無定見に「公認歴史観」を信奉する人々が大多数を占める。また、プロパガンダの目的達成のために故意に提唱する人々も存在する。

ヘンリーストークスの「連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社刊)は、その事情を簡潔明解に説き明かす名著だ。

ストークスは、その経歴から、公平で真摯な探究心を備えた一流のジャーナリストであることに疑いがない。

是非多くの人-日本人、外国人を問わず-に読んで欲しい。

ただ、原稿が英語のこの本も、和訳でしか出版されていない様子だ。残念だ。(因みに、一部誤訳の報道があり反対勢力からの攻撃が広まりそうになったが、後に誤報であるとの著者本人のメッセージが公表された。)

外国人の友人に是非贈りたいと思うのだが、それが出来ない。

冒頭で述べた二つの問題のうち、前者に対しては大いに有効である一方、後者に対しては無力であるのがいかにも惜しい。

集団的自衛権の扱いに対する議論がいよいよ大詰めを迎えつつある今、この本が出版されたことには大きな意義がある。

一般報道の場で、あるいは国民的議論の場で、個別的自衛権と集団的自衛権の区別がここまで熱心に論じられるのは、おそらく日本以外になかろう。

両者一体としての自衛権はどの国にも固有の権利として当然に認められるというのが国際法上の常識だからだ。国連憲章第51条にそれが明記されている(「個別的又は集団的自衛の固有の権利」)。

ではなぜ日本に限って集団的自衛権が個別的自衛権と区別されて大論争になるのかといえば、言うまでもなくマッカーサーが日本国民に下賜した「平和憲法」があるからだ。

この憲法は、憲法学専門外の若いアメリカ人官僚数人によって、一週間ほどで起草された。その最大の目的が、日本の戦力を永久ないし長期に無力化してアメリカに二度と反抗できない国に矯正することであったことは、論を待たない。

しかし、起草者およびマッカーサーでさえ、その後の国際情勢の変化を慮って起草したとは到底思えない。おそらく、情勢の変化に応じて改正されるものと漠然と想定していたと思われる。占領軍が急場しのぎに押し付けた憲法がこれほどの長期間大事にされるとは、一体誰が想定しただろう。

だから、第九条は、自衛のための戦争すら放棄していると読めるように書かれている。

ところが、朝鮮戦争が勃発し、アメリカではマッカーサーも日本の戦争が自衛であったことを公式に認め(やっと解ったか)、国内では警察予備隊として自衛隊の前進が発足する。その際政府は、憲法上自衛のための戦力は禁止されていないとの解釈を取った。しかし、ソ連中国の共産勢力とアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション戦略(戦争についての罪悪感を植え付ける戦略)に強く影響されていた世論を説得する必要から持ち出された苦肉の詭弁が「集団的自衛権は無理でも、個別的自衛権はいくらなんでも認めると解釈されるべきでしょう」というものだった。

「国際法上集団的自衛権も個別的自衛権と共に当然に日本にも与えられているが、日本国憲法の制約上集団的自衛権はその権利を行使することを留保した上で、個別的自衛権の発動は認める」というものだった。これで内外に対して憲法解釈上の折り合いを付けたのだ。

こんなアクロバティックな議論はない。

それだけ現憲法が危ういものであり、その運用上に困難があるということだ。

私は、現在及び今後の東アジア情勢を展望して、集団的自衛権の権利行使の権利(馬鹿げた言い回しだ)は、是非確保すべきだと考える。中国の軍事的拡張政策を牽制する現実的選択肢の中で、アメリカとの軍事同盟強化が最善と考えるからだ。

出来れば憲法改正をすべきだが、それが現実的に間に合わないのであれば、解釈の変更で乗り切ることも国の安全を保障するためにはやむを得ないと考える。

すでに解釈の変更により自衛隊を持っているのだから、普通の国と同様に集団的自衛権を個別的自衛権とともに認めるという解釈を封じなければならない理由などない。

日米の同盟に亀裂を生じさせたい中国は、「歴史問題」を持ち出してこの動きに対抗している。「歴史」、即ち連合国史観は米中で共有されているという認識を後ろ盾とする狡猾な戦略だ。言わば場外乱闘に持ち込んだのだ。

米国にはこのジレンマをいかに解決するかという試練が与えられた。下手をすると、東京裁判の不法性、不当性まで議論が及びかねない。とアメリカは考えるだろうと少なくとも中国は考えている。

戦後レジームからの脱却とは、そういうことを意味する。

しかし、漸くアメリカも「歴史問題」で中韓よりに立つことの愚を悟りつつあるように見える。

今はまさに日本の外交、安全保障政策の正念場だ。それどころか、日本民族の世界における評価を左右する屈折点にあるとも言える。

同時にアメリカにとっても国際政治上の重大局面だ。

ストークスはこの本の中で、集団的自衛権の問題には触れていない。しかし、三島由紀夫の「憲法改正の機会を永久に失った」との言葉を引用していることを見ても、この問題を意識しての執筆に間違いなかろう。

2014年5月13日火曜日

文の「父」と我が母

硬派の文章が読みたくて勇んで買った幸田文の「父」は読み足が遅い。

繊細で緻密な感情描写が魅力だが、読み込むうちに女性特有の愚痴と弁明の言い募りだと気付く。

巧みで隙のない文章だけに、漸く鬱陶しくなる。

一葉を愛し書くことも好きだった我が母は生前、書けば結局愚痴になるから書き残したくないと言ったことがある。

「父」を読むとその言葉がその面影とともに蘇って私の胸を突く。

母は晩年老人ホームで認知症とパーキンソン氏病を病む父と過ごしたが、遺した俳句はどれも身の回りの四季の気配と夫への愛情を詠んだものだった。