2014年7月9日水曜日

連合国史観と集団的自衛権

硬貨の裏表ともいえる二つの問題がある。

日本人自身のアイデンティティー、自尊心の問題と、世界に流布する日本人に対する誤解の問題だ。

誤解と言ったがこれは勿論偶発の誤解ではない。複数国の複数のプロパガンダによって、意図的、計画的に造成され、植え付けられた誤解だ。

現在の国際政治の指導的諸国に共有される特定の歴史観は、言わば世界公認歴史観だが、そのプロパガンダを基本的に是認した上で成り立っている。

従って、その誤解を解こうと試みると、その議論は世界中から「修正主義」のレッテルを貼られ、敬遠され、嫌悪され、執拗に攻撃されかねない。

また、その議論を封じ込め、攻撃するための政治的対策も周到を極める。

結果、日本国内でも、無定見に「公認歴史観」を信奉する人々が大多数を占める。また、プロパガンダの目的達成のために故意に提唱する人々も存在する。

ヘンリーストークスの「連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社刊)は、その事情を簡潔明解に説き明かす名著だ。

ストークスは、その経歴から、公平で真摯な探究心を備えた一流のジャーナリストであることに疑いがない。

是非多くの人-日本人、外国人を問わず-に読んで欲しい。

ただ、原稿が英語のこの本も、和訳でしか出版されていない様子だ。残念だ。(因みに、一部誤訳の報道があり反対勢力からの攻撃が広まりそうになったが、後に誤報であるとの著者本人のメッセージが公表された。)

外国人の友人に是非贈りたいと思うのだが、それが出来ない。

冒頭で述べた二つの問題のうち、前者に対しては大いに有効である一方、後者に対しては無力であるのがいかにも惜しい。

集団的自衛権の扱いに対する議論がいよいよ大詰めを迎えつつある今、この本が出版されたことには大きな意義がある。

一般報道の場で、あるいは国民的議論の場で、個別的自衛権と集団的自衛権の区別がここまで熱心に論じられるのは、おそらく日本以外になかろう。

両者一体としての自衛権はどの国にも固有の権利として当然に認められるというのが国際法上の常識だからだ。国連憲章第51条にそれが明記されている(「個別的又は集団的自衛の固有の権利」)。

ではなぜ日本に限って集団的自衛権が個別的自衛権と区別されて大論争になるのかといえば、言うまでもなくマッカーサーが日本国民に下賜した「平和憲法」があるからだ。

この憲法は、憲法学専門外の若いアメリカ人官僚数人によって、一週間ほどで起草された。その最大の目的が、日本の戦力を永久ないし長期に無力化してアメリカに二度と反抗できない国に矯正することであったことは、論を待たない。

しかし、起草者およびマッカーサーでさえ、その後の国際情勢の変化を慮って起草したとは到底思えない。おそらく、情勢の変化に応じて改正されるものと漠然と想定していたと思われる。占領軍が急場しのぎに押し付けた憲法がこれほどの長期間大事にされるとは、一体誰が想定しただろう。

だから、第九条は、自衛のための戦争すら放棄していると読めるように書かれている。

ところが、朝鮮戦争が勃発し、アメリカではマッカーサーも日本の戦争が自衛であったことを公式に認め(やっと解ったか)、国内では警察予備隊として自衛隊の前進が発足する。その際政府は、憲法上自衛のための戦力は禁止されていないとの解釈を取った。しかし、ソ連中国の共産勢力とアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション戦略(戦争についての罪悪感を植え付ける戦略)に強く影響されていた世論を説得する必要から持ち出された苦肉の詭弁が「集団的自衛権は無理でも、個別的自衛権はいくらなんでも認めると解釈されるべきでしょう」というものだった。

「国際法上集団的自衛権も個別的自衛権と共に当然に日本にも与えられているが、日本国憲法の制約上集団的自衛権はその権利を行使することを留保した上で、個別的自衛権の発動は認める」というものだった。これで内外に対して憲法解釈上の折り合いを付けたのだ。

こんなアクロバティックな議論はない。

それだけ現憲法が危ういものであり、その運用上に困難があるということだ。

私は、現在及び今後の東アジア情勢を展望して、集団的自衛権の権利行使の権利(馬鹿げた言い回しだ)は、是非確保すべきだと考える。中国の軍事的拡張政策を牽制する現実的選択肢の中で、アメリカとの軍事同盟強化が最善と考えるからだ。

出来れば憲法改正をすべきだが、それが現実的に間に合わないのであれば、解釈の変更で乗り切ることも国の安全を保障するためにはやむを得ないと考える。

すでに解釈の変更により自衛隊を持っているのだから、普通の国と同様に集団的自衛権を個別的自衛権とともに認めるという解釈を封じなければならない理由などない。

日米の同盟に亀裂を生じさせたい中国は、「歴史問題」を持ち出してこの動きに対抗している。「歴史」、即ち連合国史観は米中で共有されているという認識を後ろ盾とする狡猾な戦略だ。言わば場外乱闘に持ち込んだのだ。

米国にはこのジレンマをいかに解決するかという試練が与えられた。下手をすると、東京裁判の不法性、不当性まで議論が及びかねない。とアメリカは考えるだろうと少なくとも中国は考えている。

戦後レジームからの脱却とは、そういうことを意味する。

しかし、漸くアメリカも「歴史問題」で中韓よりに立つことの愚を悟りつつあるように見える。

今はまさに日本の外交、安全保障政策の正念場だ。それどころか、日本民族の世界における評価を左右する屈折点にあるとも言える。

同時にアメリカにとっても国際政治上の重大局面だ。

ストークスはこの本の中で、集団的自衛権の問題には触れていない。しかし、三島由紀夫の「憲法改正の機会を永久に失った」との言葉を引用していることを見ても、この問題を意識しての執筆に間違いなかろう。